小池ぶりっ子党は、まず銭をむしり取るのですね。
銭は否定出来ません。宗教だって銭が無ければ何も出来ません。政治だってそうです。しかし、宗教や政治は志なので、銭に変えて良いのかとなります。
銭に偏れば、政治も宗教も、心を取引する商売に堕します。後は打算だけです。欲と損得勘定しか残りません。
己の権力の安定や、銭の為の利益誘導などに力を費やす事になります。
公正に平等に人権を守り、国を良くする為の道理とは何かは、どうでも良くなります。ここに正当な思考は存在しません。無頭脳、不人情だけが存在するようになります。当然です。
アウフフーベンとは、昔、説教された「たがえない」という事を思い出します。
重要なのは、己に「たがえず」相手にも「たがえない」事です。己が相手の気持ちになる。その上で、相手を己に同化させるように努力する。また、相手も同じように、己に対して努力してもらえば、これに越した事は有りません。
互いに和して同ぜず、より良い道を探って行く。そして、落とし所とかの安易な妥協では無く、深く知性、感性を働かせて、互いの利点、欠点を調整して行けば、自然に新しき道が開けて行くと信ずるのが議会民主制と思います。この反対は停滞か、議論を無視する多数決という横暴しか残りません。
これは議論の基本です。夢見たいですけれども、この理念は忘れるべきでは無いです。しかし、安倍晋三、小池ぶりっ子は議論をないがしろにしています。議論をする気が有りません。議会民主制は熟議です。これを復活させなければならないほど、政治の劣化が進んでいます。
議論は、初めから相手を排除しない所から始まるはずです。己にとっての異物に対して、寛容と器量が必要です。
議論は、話を聞き、思考する態度です。道理、話の筋を理解せず、己の思いと違うから即排除など、議員で無くても、人間の質を疑います。こうなると、成功は単なる偶然でしか無く、失敗は理の当然になります。
大東亜論の登場人物に存在するような度量がなければなりません。現在、右ヨタろーを中心に、この度量を失っています。日本人の民度も堕ちたものです。
要約再説明みたいになっち、ごめんしゃい。
毎度ありのちゅうしゅ。