もくれん先生の紹介されていたアダム・スミスの
「公平な観察者」の意義は、永遠に消えないと思います。
新堕落論の堕落について、自分は観念的に堕落の先を考え過ぎていたと思います。もちろん、堕落を自覚して、初めて堕落の意味が有ります。しかし、もっと素直に堕落を認識自覚するだけでも良いと思いました。
新堕落論の解説映像で、みな独占物としか認識出来ず、己と結びつけられない欠如した想像力で、白黒判断しか出来無いと言うのが、最も問題な点だと思ったからです。
数寄者の言葉にも
我が心の師となる事無く
心の師となり
真偽を奢らず
誠をもって臨めば
主客一緒に心配りを活かす事が出来ると言われます。
ところが、どこもかしこも感情の劣化で、我執を自覚出来ずに、物事の優劣真偽を狭量な視野で決め付けるのに夢中です。劣者が優者を妬み、優者にならんとして、劣者を決め付けて蔑むばかりです。
もっと、素直に堕落を自覚すれば、互いに慎み深い態度で接するようになると思います。そうすれば自然に品格も出て来ると思います。日本は、謙譲が主軸の文化だったと思います。「公平な観察者」なら、例えば横綱なら、せめて、それなりの品格を出そうとするはずです。庶民なら暴悪の言が、これほど飛びかうようになら無かったと思います。
もっとも、ネットの普及で暴悪は全世界規模になっています。世界中が、堕落を自覚しようとしていません。
全世界が堕落して、互いに相手をねじ伏せようと一生懸命です。堕落を自覚していれば、他人を変えるより、まず、自分を変えようとするのが、一番簡単で、一番早い事に気付くのは、もっともです。
堕落を説いても、これが理解出来ず、どうしても己が優れていると固執して、相手を捻じ伏せないと気の済まない存在は後を断ちません。おそらく、どんな説明でも、土下座しても許してくれそうに無い状態です。そうでないと気の済まないのが増え過ぎました。言っても、分からなければ、どうしようも有りません。全く見込みは無いので、縁を切るしか方法は無いです。
それには容赦無く厳しくならなければなりません。しかし、己は最後まで厳しくなり切れない所が困ったものです。それに、縁切りしきれ無い同じ社会の結び付きですから、更に困ったものです。