これも今更ですが、リバチーさんの質問、回答なんてことは言えないのですが、自分なりに考えてみました。
まず、赤軍派について、彼らは最終的には自分たちのシンパを増やし、政府の転覆を考えているのだと思います。つまり、市民革命を志向しているわけです。しかし、これは頭山満の嫌悪していた頭数の人間の手法ですね。頭数だけ揃えてもロクなことにはならない、実際に赤軍派は内輪で殺し合いしていました。
一方で、来島恒喜は自分の行為を「いくさ」だと考えていたのではないでしょうか?負け戦を挽回すべく大将首を獲りに行く、だから、僕には彼の行為が真田幸村が徳川家康の陣に迫る場面とかぶって見えるのです。彼は自分一人で状況を変えようとして成功させ、更には自決することで自分一人で責任を取ったわけです。
頭山満は「一人をもって数千万人に当たる」人物こそが必要と考えた、それは逆に言えば、たった一人が状況を変えることもありうるということで、来島はまさにそれを実現してみせたと言えるでしょう。
来島の行為と赤軍派のしたこと、現代の価値観のみでいえば同じテロに見えるかもしれないけど、一方は数の力を頼む近代的な「市民革命」で、もう一方は自分一人ででも世の中を変えようとするある意味前近代的な「いくさ」でここに大きな違いがあるのかなと感じます。