無頭脳とか下賤とか、それにダボと言う語も最近になって教えてもらって口の悪い己です。馬鹿とか畜生とか言われ続けてきた反動で、こちらの方が馬鹿より穏当のように感じられるから使います。無頭脳は、己が医学的、物理的にそうなので、己より程度の低い事を言う奴に上から目線でいい気になって言ってやっています。
やギ 、「いざり」の語が先生のブログに出て来るとは思いませんでした。江戸時代なんか、腹一杯に米を喰って、酒を飲んだカネ持ち商人も脚気になって好いおべべを着ながら板車に乗って両杖を使って進んでいたり、手に下駄を履かせて進んでいたのは普通にいたようです。これは乞食にもいて、中には憐れを誘って銭を恵んでもらうのに演技をしていた人もいたです。
このように、ぶりっこして男社会に取り立てられようとして媚びを売って、つまらん恵みに預かろうとする男系固執女には、いざり根性と言ってやりたくなります。これは使ってやりたいです。
でも、本当に足の不自由な人もいたりして、いざりの語は、これまで流石に控えておりました。今度から、どうしようかいなあ。
もちろん、生放送の投資入れの御礼なんか別として。
これは差別用語なんでしょうか。供敬するには、いざったままやれとか作法を指導されてもいました。
今、調べたら差別用語になっていますね。放送禁止用語にもなっているようです。漁り漁を「いさりりょう」と読んでいる一方、漁り火をそのまま「いざりび」とも言っています。い「さ」りびと言っているかなあ。ごっちゃです。漁りと躄は違いますけれども。
どうなっているんですかいなあ。
乞食だって差別用語とか言われていますけど、「こつじき」行と言えば、托鉢を意味して、今でも使われています。乞食は清貧も意味する大事な語です。乞食は特に禅では重要な語です。カネ持ちが貧乏人の真似をする茶道にも使う人はいます。しかし、真似では無く本当に清貧な人が茶道にもいます。いっとき、施餓鬼の語を禁止にされそうになりましたが、仏教界が反発して押し戻した事があります。餓鬼を使っちゃいけなくなったら、どう供養してやればよいのっかって話です。悪童をガキとも言えなくなります。語は使い方次第と思います。
差別用語でない新語を作っても、再び差別用語になる御時世です。聾唖でよいと言っているのに、聾唖の人たちが嫌だって言っているのに支援学校なんて語を強制してもいます。
こう考えますと何を指して言うか意味も取らずに、何か言って来る奴には中指立てればよいですね。