うさぎさんには要点を纏めて助け舟を出して頂き御礼を申します。
また、要領を得ないものを書いてしまいました。どうも頭蓋の中の思いの並存状態を一つの流れに変換する事が再び出来ていません。このように分からない文章を書くとカルトが違う教義の人を抹殺したくなるように憎まれます。悪と決め付けられて、こき下ろされます。しかし、分からないものは分からないと言ってもらえれば努力をします。ここは時間を捻出可能なら何とかします。憎まれる筋合いはありません。
この文章の前段は、うさぎさんの
を御覧くだされば済む事です。
己なりの焼き直しをしたに過ぎません。
後段については、初めにおことわりをしておくと、
タロー G さんを悪し様に言う意図は微塵もありません。
かわいい小さな娘さんを
よしりん先生に抱き上げられて喜んでいらっしゃる素敵なお父さんです。全く人間的な慈愛を持っていらっしゃいます。そんな人を悪く思うなんて出来ないです。
そして天皇について大切と思う心の相違が有っても、これは悪い事ではありません。
天皇制を廃止した方が良いと考える
井上達夫先生もいらっしゃいます。
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天皇を大切に思うか、これは歴史上からの日本国、日本人を大切に思うかにかかっています。
ここでは、天皇と日本を同義とします。
天皇、日本国、日本人というのを便宜上に省きます。
歴史上からの日本を大切に思うかどうかは、日本に価値を見出しているからです。しかし、この価値と言うものは厄介なものです。言葉、文字で価値について語る事は出来ても、大切に思う心そのものを伝える事は、まず不可能に近いと感じます。
虐め加害者に虐めはいけないものだと諭しても、まず分かりません。反省などするものかです。それはそうです。人間の心は有線で繋がっている訳では有りません。人間同士は完全に隔絶された存在です。
生育環境から自分が大切にされておらず、充分な愛情が注がれていないと自分を大切にする心は起こりません。自分を大切に思えない子は、他の人間を大切にする事は出来ません。何故なら人間を大切に思う、その心が無いからです。無い心に理を解いても分かり合える筈は無いのです。人間と人間が通じ合える共感性が無いからです。
ですから、日本を如何に大切に思えるかは、日本に生まれて育って、日本からの恩恵に感謝し、日本を大切に思い、日本に価値を見出していなければ、その人に日本は大切だと説いても分かってもらえるのは難しいのです。従って、愛国を教育で教えようなどとは一面的には、まことに片腹痛しと言う他ありません。
日本に嫌な事が起これば日本など無くなれ、日本から出て行きたいと言うのが、日本を大切に思わず価値を見出していない代表の言葉です。
己は日本を捨てる事は出来ません。日本が大切です。日本が価値なのです。日本から離れて生きて行くなど考えられません。
外国には行きたく有りません。外国に旅行する気も起こりません。外国を旅して回るなら、日本の隅々を旅したいです。日本の全てを体感しきりたいです。個的な勝手な体感であっても構わないと思っています。それだけ日本が好きです。
日本から離れて生きられない以上、日本が根こそぎ変えられる侵略者が来たら命を捨てても排除します。命を失えば日本も何もかも分からなくなります。しかし、日本を思う命の存在としての己は、命は日本があってこそとしか感じられないので仕方が無い事なのです。
アゾフ連隊の隊長だったと思いますが、航空からの廃墟とし化した真っ黒焦げのウクライナを見て、不動産の価値は全く無いけれども、ああ、ここはかけがえのない我らの国です、命を失っても、とても捨てられるものでは無いと語っていました。上空からの真っ黒焦げのウクライナの地を見ても尚、我が子をいとおしむように、自分たちの国を見て語っていました。
ああ、これは日本が好きな己の心と一緒だと思いました。命を失って愛する我が子と別れるのは惜しいです。しかし、自分の国もまた大切です。我が子も自分の国に収まっており大切ならば、命を失っても侵略者に向かって戦う心は充分に理解できるのです。
自分の国はかけがえの有りません。用が無くなったからと言って捨てて外国に逃げ去る事など出来ないのです。他の国、土地では代変えは不可能なのです。
しかし、日本に価値を見出さないからと言って悪い事では有りません。逃げ出したければ逃げ出してもよいのです。しかし、国民である以上は、その国の機構の恩恵を受けている以上は法的に限って、国に尽くす義務は発生します。それだけの事です。
形だけの愛国に酔っている者は、この点を履き違えています。愛国者でなければ悪と捉えます。しかし、己に限っては日本人として共感は不可能では有りますが敵視は出来ません。その心の無い人に愛国を強要しても、それは相手にとって愛国に変換は不可能だからです。
日本を大切に思って価値を見いだせていない人は
天皇は日本の歴史から続く特別な家系の人で、憲法に明記された、権能を有さないけれども、権威はあって、日本に大きく影響をもたらせられそうな単なる他所の人としか思っていません。
天皇を他所の人として捉えている以上は、猫も杓子も同じで、烏合の衆の中の特殊な存在としか見えていません。
それを大切だと説いても、その価値を心に伝える事は不可能です。無い心に、その心を理屈で説いても、その心を生じさせる事は出来ません。
ただ唯一の方法は、その人にとって命に代えても代えられない愛着を日本に持っているかに懸かります。御自分の娘を大切に思うように日本を思えておられるかどうかだけの一点に懸かります。
これ以上を愛国について説いても、それは強要になります。人権がある以上は強要は出来ません。腕に縄をかけて吊し上げて鞭で打って、愛国を強要しては非 人道になります。愛国で無ければ悪い事は有り得ないのです。これは思想の自由と言うものです。
ただ、天皇は歴史上、日本に大きく関係し、日本を形成する上で大きな役割を果たされておられ、今も未来に向かって、日本に大きな役割を果たされておられます。この理屈については議論は可能な筈です。
天皇制「廃止」論者の井上達夫先生と
天皇制「存続」論者のよしりん先生が
議論をされるのは、この点です。
何も愛国について論じておられる訳では有りません。
天皇の国家制度上における価値については議論は可能なのです。
天皇を日本に命を懸けるほどの価値を見出さなくても、国家制度における価値の共有については理屈で分かり合える可能性は有ります。
別に何となく天皇制は好きだ。
両陛下を戴けて嬉しいと思っていても、それはそれで構わないのです。
しかし、天皇は日本の価値の象徴で有り、憲法に明記されている価値の主体です。国会議長が
陛下に国会に御出ましを賜り、両手で押し頂きながら
陛下に背を向けずに、段を降りられます。
100円玉に手品の種として穴を開けるのは貨幣偽造の罪になります。価値の破壊に繋がるからです。
それと同じで天皇を何かの用の道具として使う事は控える事です。日本の価値を蔑ろにしてはなりません。法的に価値付けられた以上は、その点においてに限っても価値は価値なのです。これは日本国家に生きる者としての最低限の慎みです。
人間は生きる価値を求めて生きる存在です。他の生物に見られない特徴です。その価値は国家制度のものであれ、命を懸けるものであれ、価値を他の手段に使って貶める事は人間性に反する行いです。これは、法的にも道徳的にも許されるものでは有りません。
天皇を大切に思わなくても構いません。ただ、人間の価値とは何かを御考えになり、
天皇と合わせて、各自、御参究を願うばかりです。