丑三 やギ の削除コメント


どうも長くなっています。端的に書くのも今年の目標ですが早くも挫折しています。短く纏めると誤解されると思います。それに趣旨が逆転しているような気もしないまではありません。興味の無い方は読み飛ばしてください。

天皇陛下の一般参賀を見て胸が痛みます。確かに隔絶されたガラスに向かってマスクをされておられるのは、常識的におかしい御姿であらせられます。

そこで、天皇陛下にも国民と同じくコロナ禍を押し進めた御一人として責任が有るとする人がいると思います。

では、天皇陛下は如何にすればよろしいのか。コロナとワクチンのデマを見抜いて、偽医者や愚かな政治屋、ひいては近習の言葉を蔑ろに率先してマスクを外し、コロナデマ覚醒者と同じくして我らの喝采を浴びれば、公けの体現者であらせられると認めるのか。ピーチ航空で姿を現したマスクを執拗に拒んだ偏屈者のように振る舞えばよろしいのか。

天皇陛下はコロナ禍に御心を痛めておられます。もう少し経って希望的観測通りに、コロナ人災の明らかになるとすれば、
昭和天皇陛下が大東亜戦争の責任を痛感されたと同じく、
今上天皇陛下は、コロナ人災の背中を押して、国民を崖から突き落とした一端の責任を悲愴に感じられると思います。

そこで、率先してコロナデマの正体を見抜かなければならなかったと、
国民は今上天皇陛下をなじるのかな。
左ヨタろーたちが、
昭和天皇陛下に戦争責任有りとしてなじり続けているように、
今上天皇陛下をなじるのが国民の態度と言うのかな。

率先してコロナ、ワクチンデマを見抜く事が出来なかったならば、コロナ人災の明らかになれば、率先して
今上天皇陛下は御腹を召されるべきと言うのかな。

これはおかしいです。
天皇陛下を憲法に押し込め、国会、内閣の示す政治的枠組みの中に制限された
今上天皇陛下の御振る舞いに責任云々を口にするのは、どうかなと思います。憲法の下、国会議員を選出し、内閣を作ったのは国民です。

ならば、コロナ、ワクチンデマを率先して見抜けなかった責任は、
今上天皇陛下にも有りと言うなら、そうさせた己を責め、確かな訴状と共に、その人は国民の中で率先して腹を詰め、大罪を以って介錯無しで大苦痛と共に果てるべきです。始末に他を困らせないように、観光のこない浅瀬が場所としてよいと思います。

この覚悟の無いなら、コロナ、ワクチンデマの責任の一端は
今上天皇陛下にも有りと回す舌は、喉の向こうへ大人しく引っ込めた方のよいと思います。

昔の封建制は理不尽な生殺与奪の行使を君主に握られていました。そうで無くなった立憲君主制でも、臣下の忠とは理不尽で過酷なものです。

ふざけた喩えに過ぎませんが、忠犬ハチ公は主君のいなくなった後も、当時の人たちから畜生扱いで邪険にされながら、10年にわたり、主君の帰りを渋谷で待っていました。それなのに主君の姓は上野でした。

南極物語で有名な犬の太郎と次郎も畜生扱いで南極に一年も置いてきぼりを喰らいながら、帰って来た主君に尻尾を振りました。喰いちぎってやってもよいのにな。でも、喰ってやったら喰っってやったで、畜生扱いで裁判も受けずに殺されます。

君臣の別とは、忠義とは、なかなかブラックな待遇で労働者の権利みたいなのを主張出来ずに忍の一字と運で生き残るしか無いものです。それを耐えなければ忠とは言えず、臣下とは言えません。人間と言えども、昔は君主の胸三寸で処分されましたから、臣下とは或る意味、畜生扱いなのは変わらないと思います。なかなかの臣下残酷物語です。

しかし、現代では憲法で縛り上げた君主を、あらゆる人権を認められた絶対強者の国民主権で臣下が君主を畜生扱いしているのが現状です。それでも君主は臣下の日本国民の為に尽くしてくださっておられます。情け容赦の無い君主虐待物語です。

それなのに何で臣下が君主に文句を付ける余地が有るのでしょうか。贅沢坊やの贅沢嬢ちゃんのペットの髭を切るような暴虐にしか見えません。

天皇陛下は正月でも元旦から公けに晒されて、御為しになるべき事を制限された枠組みの中で御為しになられておられます。一般参賀のマスクも、内閣から奏上された内容を元にしなければならず、制限された枠組みを慮っての事であらせられると御察ししなければ酷と言うものです。

天皇陛下にも責任有りと言う前に、コロナ人災の明らかになった際の
陛下の御心痛を察せられない国民というのは何の分際かな。

ここに勝てば官軍、負ければ賊軍のように、
担いだ天皇を己らの思うようにして幅を利かそうとするような賤しい心根を感じてしまいます。

即ち、己らの意に叶えば持ち上げ、意に叶わなければ貶すというイザリな商売根性です。
つまり、天皇を値切るようにしか見ていないのではないかと疑います。
天皇陛下を商量しているように感じてしまいます。

利欲だけの商売根性な、いやらしさと言うものでしょうか。

何かいやらしいの、いやらしいわ、いやらしい。
いや!そんな風にあたしを見ないで、!
目で犯さないで!
いやっ!
いやああああああ!
で無くて
陛下を、そんな目で見ないで。

天皇が国民の象徴なら、天皇の非を見て何かを言う前の以前に真っ先に国民に言うべきです。
陛下は国民の姿だからです。そのように型枠されてしまう御立場だからです。

そこで、もっとも貶すべきは、藪医者、薬品会社と利権でつるんだ下賤、世間に媚びる知識人、報道人、無力な言論人です。同時に、真実を演説する勇気有る賢い言論人の言葉を咀嚼しない国民です。

それなのに、どっちもどっち論を言う知識人のように、国民に責任有りと断りを一言入れながら、
天皇陛下にも責任が有ると申すなら、どっちもどっち論を展開して、真実から論点をずらして的外れを言う、いやらしい知識人と同じにしか感じません。

ここで言うと、よしりん先生には何も言わずに
陛下にはケチを付けるのな。
先生に文句を付けられるの?
あれだけの時間を割いて
あれだけの絵を描いて
あれだけの解説を書いてコロナに無力だなって。

勘違いしちゃ駄目よ、先生はお役目をされておられます。先生は悪くない。
世間が、こうなっておれば、読まない世間が悪いでしょう。
第一、先生を黙殺して無視しておる世間を率先すべき立場の連中の責任はどうなのか?

このような責任の無い連中に世間の型枠にはめられて奏上を御受けになられている
陛下に文句を付けられるのか?

陛下は、先生と同じに御役目をされておられます。ただ、御役目の立場が違います。それに藪医者や政治屋や駄目報道人とされる内容が違います。そして、国民の意に反して仇為す存在では有りません。権力に就いて国民に銃を向ける官憲とも違います。競技人や芸人、アイドルのように商売でしている訳では無く、公僕の税金給料とも違います。昔のような支配者でも有りません。

何処に評価基準を定め、国民から商量される筋合いの有る存在であらせられるのか。

天皇を国民の商量の的にするのは、
国の象徴たる価値を商量する事です。
つまり、商量する国民に国の象徴が値段札を付けられる事で有り、
天皇の価値は、国民より下に下げられます。
天皇が代変え不能なかけがえのない存在では無くなります。

国の象徴は価値の秤にかけられない価値です。これを商量するは有ってはならない価値の毀損行為です。

皇室の存続、天皇制の意義(その価値の目的)を掲げるなら、その意義に何を求めているのか。国民の意のままに動かす為の木偶の坊に貶めるのが目的か。
天皇制の意義を履き違えておるのではないか。

評価基準の定め無く、評価商量の根拠無き
陛下に責任を論ずる事はあってはなりません。
陛下の責任を商量するのは、
天皇を戴きたく無いと申すのと同じです。
天皇を貶すのは国旗を貶すのと同じに思います。

こう言う人が求める見えない価値に対して、何か御くれよ的に物欲しそうにする者は、御参りしても御利益に与れなかった
神社、仏閣を破却する性根を持っています。この無常な世で、何が起こるかも分からない世で、手を合わせるのは何の為か。下賜される現世利益を得る為か、宝くじの高額当選を願ってか、カネにならないと
神仏、天皇、祖霊を敬えないのか。
カネか何の物品が欲しいのか、棚から牡丹餅が欲しいのか。食い物か、食い物なら何がよいのか、ステーキを腹一杯か、日本産うなぎで腹一杯か、ステーキやうなぎでないなら、何で満足なのか。酒か、酒なら何の品種なら満足なのか。どのくらいに量が欲しいのか。

何を願い敬うものなのか考えておく事です。
求める物が唯物なら
神仏、天皇、祖霊を心から消滅させた方が良いと御勧めします。

コロナ禍は、天皇にも責任有りとするなら、オーディエンスなんて、
陛下にして頂いたら如何なる事態が待ち受けている事やら。

権能を御持ちで無く、
ネット上の反論権を御持ちになるのは、
皇族、御一人、御一人が不可能と言われている中では、
陛下をはじめ、皇室を御守りする事は能わずです。
眞子さん様に対してのように
皇族に罵倒が集中して御気を狂わせて病いに追い込み、
ひいては自死にまで追い詰める輩が
湧いて留まる所の知れなくなります。

そして、天皇を意のままにしたいと思う者が必ず出て来ます。昔と同じです。竹の先に直訴状を挟んで突撃する者もちょっとやそっとでは済まなくなります。

これでは、天皇陛下の取り合いになって不始末が起こります。
陛下が、己らの意に叶えば持ち上げ、意に叶わなければ貶すの価値の毀損が横行します。
天皇制の意義が失われます。
こうなると男系男子の皇位継承に執着して、
御妃に意志では不可能な男女の産み分け、多産を強要する非道な輩と変わる所はありません。

陛下は、こうなるのを御存知の筈です。
争い事の種になるならば、
詰まる所、天皇制は要らないものになりかねません。

君主を奉る法は、君主の非を嫌う事無く、御姿を拝して、これを無碍にせず、ただ己の鏡として省みるよすがとし、ひたすら敬い奉って身を正す範とするのが唯ひとつの道ではないかと思っています。他に今の所は思い当たりません。

よしりん先生の人格における癖を嫌わず、その作品の面白さ、理の筋を受け入れるのと同じに思っています。いちいち先生のあれが嫌い、これが気に喰わないとして、先生の御利益に与れない人は大損をしていると思います。

陛下の非を嫌い鏡として己を省みれないならなら国旗を降す事です。

これは、よしりんが嫌いなら、よしりん本に見向きもしなければよいのと同じかと思います。思想の自由は保障されているのですから、
無理に天皇制を掲げる必要はありません。
こんなのが天皇制を担ぎ上げるのでしたら、
敬宮殿下が御即位されても気に喰わない事があれば、
愛子天皇は降りるべしとして廃位を主張するようになる筈です。

天皇制に数は必要はありません。敬う心の間違った者で維持される
天皇制は醜いものに成り下がります。
ならば、皇族方には国民になって頂いた方のよいです。不敬の輩が多ければ、そうなって然るべきが定めです。

一体、何の為に我らは天皇を戴きたいのか胸に手を当てて体感すべきです。考えてはなりません。人の本性を調べる事です。

これが無く、天皇を商量するなら、
今上天皇陛下が皇太子であらせられた時に御退位なさいませと書いた身の程知らずの宗教を知らない宗教学者や類似の者らと何ら代わりません。
こんなのは、愛子天皇を奉じるのは、さっさと辞めて共和制を望んだ方のよろしいと考えます。

いちいち、思いのままにならない事に我が儘を言って、我慢を張るなら
天皇制を奉ずるのは直ちに辞める事です。
愛子天皇なんて望まない事です。
移り気の浮ついた者が、
いざとなれば天皇を思って戦うなどと言うのは、ちゃんちゃらおかしくないでしょうか。
天皇陛下、皇族方の人生を奪っておいて、狂わせておいて何を求めるのか。一大事に参究すべきです。

己なりの解答は記しません。理屈を書いても、その心は伝えられないからです。本来、価値の根本は値段札のように目で見えるものではありません。そこで理屈を書くと、理屈で返して来る者がいるので嫌なのです。言葉や文字に変換出来無い所を、ものは言いようにされてしまうのです。そこで書いた途端、価値が失われかねません。
愛子天皇論では気付くように描かれると思います。

総じると、正月に浮世の苦労から束の間に解放されて、家の中でプライベートを楽しみ、酒を朝から喰らって呑気にしている一介の国民が、うつつを抜かして好き勝手を言ってはならないと思っています。

贔屓目と言うものかな。

日時
2023-01-03 21:53
投稿者
丑三 やギ
記事
「ゼレンスキーとプーチン、天地の差」小林よしのりライジング Vol.455
No.
171