そうですよね。
ただ、ウクライナ陰謀のデマは、
コロナデマ、
皇統断絶容認男系固執デマ、
統一カルトデマと同じく、今の所、到底常識の観点から許容出来ないデマです。常識を以ってすれば、簡単に解除可能なデマ洗脳です。これに嵌るは、どうしても、
よしりん学校の生徒として黙認出来ません。
コロナ論では、井上正康先生の危うさに気付いた
よしりん先生が、井上正康先生のキャラの顔を馴れ馴れしく撫でて、伏線を貼っておられたけれども、
井上正康先生が、ウクライナ陰謀論に嵌るのは、
よしりん先生にとって、コロナ論読者やウクライナ戦争論読者、
引いては愛子天皇論の読者までも信用を落として(正確ではなく大袈裟ですけれども)裏切りに近い状態に事実上なってしまうのではないかの危機です。
コロナ論で、あれだけ常識の海にいざなったのに、或る一方で常識が破綻するのは、
よしりん先生にとって、よしりん企画にとって、断腸の思いの筈です。己も同じです。
どんなに優秀でも、人は一面だけを見て、こうだ!と決め付けられないし、決め付けてはいけるものではないです。つくづく、そう思います。
希蝶さんが紹介されておられたけれど、目の見えない人たちが像の体の一部分のみを触って、鼻を触った者は像は細長いものです、耳を触った者は、象は平べったい者です、足を触った者は、象は頑丈で太いものです、胴を触った者は、像は大きくて重いものです。尻尾を触った者は、像は紐の様なものです、と捉えたと言います。まさに人間は、こうした業を持っていると言えます。
人の一部分を捉えて、
お めぇ〜はこうだ!と言う愚かしさです。
(こうした言い方は、人のトラウマを呼び出しもすれば、人を活かして和睦させもしますし、言い方によっては人を反発心の泥沼にはめて、反対に頑迷固陋に導きます。己の一時の激情から、人の和を乱して、人を引き付けるべき仲間を失うのは惜しいです。もちろん己は人様に言う事は出来ません。疳の虫封じをよくして、己の戒めとしなければなりません。十七条憲法の第一は重要です。)
***各事後参照。十七条憲法の第一
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
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井上正康先生には、よしりん先生に御願いするしかありませんが、またもや、輿に乗せて招いた人が、許容出来ない非常識の輩と群すれば、それは、
よしりん先生の信用失墜はまぬがれません。
ちょっと大袈裟過ぎる嫌いがありますね。
人との関係は、ジグソーパズルの様にデコシャコしていて、共闘出来る部分と出来ない部分が生じるのは仕方無いとの見方もおっしゃる様に可能です。
井上正康先生には、虚心坦懐にして、
よしりん先生の御話を聞いて、布団の中で、海外の論文を携帯で読み、勉強されて、コロナデマに巻き込まれなかった様に、常識を立て直して頂きたいです。
これは、一重に井上正康先生の器量にかけるしかないです。