陰謀論者の特徴
>事実や常識的な思考では検証も理解もできない
>常識がぶっ壊れている
>複雑な〜思考が耐えられない者が、
>事の真偽など問わずに飛びつくから
言い換えれば、
実証、論証によって真実を探求し、個人的、社会的問題を解決しようとする人間が、その過程を飛ばして、己の嗜好のままに結論を「決め付ける」だけが陰謀論者。
要はデマのまま信じてしまうですね。
究明しようと言う人間的特性を発揮していません。
これを発揮出来ないの意志薄弱です。
料理が不味いから、文章が不味いから、その人間の性根が悪いと決め付けるのも同じです。差別心に通じます。料理本通りに作っても不味い物を作ってしまう不得手を察する情は無く、不可思議の部分を尋ねもせん。意志薄弱にして面倒を省いて、決め付けで楽に逃げる陰謀論者と同じです。
コロナデマのあれだけの大本営発表にも動じずに、実証、論証から逃げずに、コロナの真実を見抜いた
井上正康先生も陰謀論に堕ちてしまいました。
医学問において、コロナデマの実証、論証態度には敬意を表しますのに無念です。氏において、実証、論証の学問的究明態度は、氏の専門分野においてのみであって、教養としての人間向上に資する学問では無かった事になってしまいます。
学問の方法が、学問の為であっては、人間向上の為の学問と言う教育の面目を失っています。何の為の学問かになります。学問をしながら、学問の方法に背いて、日常の自我のまま、我慢のまま野放図であれば、自を裏切り、他を裏切り、人間を裏切っています。
これによって井上正康先生は、学問の正道で毒性の新型コロナワクチンの犠牲者、被害者たちに寄り添いながら、一方では陰謀論の我慢に堕ちて、反対に、新型コロナワクチンの真実の信用を落とし、氏の見解を支持した人を裏切っています。これは弁解しても、なかなか許され無いものがあります。
事実において検証の無いものは真実とは言えません。
検証にも検証が必要です。
最高裁の判断と言えど簡単に真実と決め付けはいけないです。
今回のライジングは、井上正康先生への声明とも受け取っています。これで何とか御自分の開き目暗に気付いて欲しいです。
ここで脱線して、陰謀論に関する「信じる」について何かと考えなければなりません。もちろん、実証も論証も飛ばして検証も無く結果だけを信じるのはカルトと同じです。
それでは宗教についてはどうなるのかについて考えてしまいます。ファンタジー、フィクションを含む宗教は、みんなカルトなのかとなります。
全てはカミたのみの自我の弱い人たちの集まりなのでしょうか。
己の宗教観になりますが、宗教は人生苦に及んで、人生向上の為に工夫され、それは人間向上の為にあると思います。凡そ人の求めた文化は全て人の為にあります。
宗教では苦を離れようとする余り、苦の究明を省いて、宗教のファンタジー、フィクションに逃げ込んで楽をするのであれば、それは意志薄弱です。現実から乖離して架空の話の中で生きるだけの御花畑の人間になります。
ここで教義が人間性から離れていたり、信仰心を利用して儲けを企む宗教団体であって、宗教のファンタジー、フィクションを強情に断行させられたりすれば、殺人も厭わなくなり、また、家庭が壊れるほど宗教に貢いで、自他ともに苦を及ぼすカルトになります。苦を乗り越える為の宗教が、苦の原因になり宗教は無意味になります。
宗教のファンタジー、フィクションは、現実と大きな齟齬の生じます。己は、宗教は、ファンタジー、フィクションの意味する所の意味を現実とすり合わせて宗教を摂受するようにすべきと思っています。つまり、宗教でも実証と論証が必要になると思っています。
それをせずに、ファンタジー、フィクションの意味する所の究明を放棄して、人生苦に負けて現実の厳しさに耐えきれずに意志薄弱を以って、宗教が決め付ける結論のみの楽に逃げれば、それはどんな宗教といえどもカルトと思います。
宗教は、現実の厳しさのまま現実的に如何に捉えて、ファンタジー、フィクションを含む宗教をどう摂受するかにかかっていると思います。
宗教でも苦から逃げずに教義の内容を現実に照らし合わせる究明の過程は必要です。宗教でも、やはり現実とすり合わせる実証、論証が必要と言う事になります。
これを放棄すれば、教えのまま頭でっかちになってしまって、宗教を体現して体で理解しなければ、教義を浅く理解したまま道義に変換放棄した末路が殺し合い、財産の奪い合いになりかねません。
宗教とは言えども、ファンタジー、フィクッションに取り込まれずに人間として学ぶとなれば、常識から「逆に」外れない事が重要と思います。
それでも、この世には分からない神秘は残ります。
葬祭は原人からの人間の宗教儀式ですし、逝った者を弔い、敬慕するならば、葬儀で無く御別れの会でさえ参加しなければならないのですから、人は宗教観から逃れられません。
よく宗教と科学は相反するからと言って、
また、カミたのみとか言って、宗教は、ファンタジー、フィクッションだからと嘲笑する人がおりますが、その者でさえ、葬祭となれば、合掌しない訳にはいかないのが人間であり、宗教と人間は不可分です。
人生に誠実なら、人の力の及ばない部分を痛感する筈です。
そこに願い、祈念が生まれるのであって、宗教の神秘と現実の厳しさ、科学は誰にでも同居は可能と思っています。
陰謀論者の方々は、無闇に何かを信じているようですけれども、是非、実証と論証を忘れず
>事実や常識的な思考では検証も理解もできない
>常識がぶっ壊れている
状態から抜け出すのが、人間性を取り戻すものと心得て、カルトにはまる同じ愚かな状態から抜け出して欲しいです。
やギ も注意せんとな。