2日目のDOJOタイムシフトで視聴しました。
「子供は国の宝。子供を生み育てることは一番の仕事。」
全くその通りだと思います。小林先生の思想に従えば、独身税も正しいことに思います。
誰の心の中にも、誰の子供でも健やかに育って欲しい公的な感情があると思います。
一方で、「お前の子供のために何で俺が忙しくなるんだ?」というような
私的な感情もあると思います。
現在の社会は、公的な感情と私的な感情のバランスが崩れていると思います。
ここで長くなるのですが、カウツキー(マルクス主義の教皇)の「マルクス経済学説」より
参照いたします。
「われわれは、今一人の陶工と一人の農夫とを仮定しよう。彼らは、以前にはひとつのインドの共産主義的な村落共同体の構成員であったが、後には別々の商品生産者になったとしよう。前者[共産主義的な村落共同体]の場合、この二人は同じように共同体のために労働する。つまり一方は、共同体に陶器を提供し、他方は共同体に農作物を提供する。そして一方が農作物への彼の分け前を受け取り、他方が陶器の分け前を受け取る。後者[商品生産]の場合には、両社はそれぞれ独立して自分の私的労働を遂行するが、両者はそれぞれ、自分のためばかりでなしに、他人のためにも(おそらく以前と同じ程度に)労働するのである。そして彼らは自らの生産物を交換し、可能ならば一方は以前に得られたのと同じ量の農作物を獲得し、他方も以前にえられたのと同じ量の陶器を獲得するだろう。その点では、本質的に何も変わっていないように見える。だが、この二つの過程は相互に根本的に異なったものになる。
前者の場合には、両者の異なった労働を結合し、一方を他方のために労働させることと引き換えに、一方に他方の労働生産物への自らの分け前を直接に与えるものが社会であったということに、両者は即座に気付くだろう。後者の場合には、両者は外見的には自分のために労働しているため、この両者が他方の生産物を手に入れる方法が自らの労働の社会的性格によるものとは見えずに、生産物の特性そのものによっているかのように見えるのである。かくして、今や陶工も農夫ももはや相手のために労働しているようには見えないのであるから、製陶労働も農作業ももはや社会にとって必要な労働でないかのように見えるのである。その結果、陶器と農作物の内部には何か神秘的な性質が宿っており、その性質のために一定の比率での交換が引き起こされたかのように見えるのである。(中略)
マルクスは、これを「労働生産物が商品として生産されるや否や、この労働生産物に付着するがゆえに、商品生産と切り離すことのできない物神崇拝」と命名したのである。」
物神崇拝というとよくわかりませんが、要するに、資本主義は人間から労働や商品生産の持つ「公的な、社会的な」力を弱めてしまうと思うのです。
だから私は、子供・仕事・結婚など公なるものが、私的なものになっているのは、資本主義の影響が大きいと
思っています。