先生と高森さんが三島由紀夫について触れていたので三島についての個人的考察です。
三島由紀夫は晩年には陽明学に傾斜しました。
三島の割腹自殺について「三島氏の自決には陽明学が大いに影響を与えている。動機の純真を重んじて結果の如何を問わない陽明学の影響の一例である」と新聞に書かれました。そのことを陽明学の大家である安岡正篤は「最も間違った、浅薄、かつ最も危険な文章である。結果の如何を問わないなんていう、そんな学問や真理はない」と激しく批判しました。
陽明学がそう解釈されるようになったのは、やはり大塩平八郎の天保暴動事件のせいでしょう。
安岡正篤は「大塩は民衆の被害をなんとか救おうと必死に画策するが、当時の馬鹿奉行に邪魔されて
ついに癇癪玉を破裂させて義挙せざるを得なかった」のであり、三島由紀夫の決起とは違うと書いています。
確かに、三島由紀夫の決起を陽明学と同列に扱うのは陽明学を誤解させる原因にはなります。
しかし、何故、三島由紀夫は腹を切る必要性があったのか?になります。
三島由紀夫という人は石原慎太郎と同じで戦後民主主義体制の中でスターダムにのし上がりました。
しかし、勉強、研究していくうちに戦後民主主義体制は天皇を中心とする美意識など全くなく、唾棄、破毀すべき対象だと思うようになっていったと思います。
三島が自殺したのは佐藤栄作内閣の時です。
日本の保守派、保守政党は独立回復後は占領軍に押し付けられた制度を改革しようと努力していきました。しかし、岸内閣の時の安保騒動が原因で根幹である憲法は改正するチャンスを失いました。
その次の池田勇人ははっきりと「憲法は改正いたしません」と明言し、高度経済成長により国民を豊かにし、そうすることで共産勢力を抑える方向にシフトしました。
池田が病気で倒れ、佐藤栄作が総理になりますが
佐藤内閣ではもはや憲法改正なんかする気は完全に失せて、ベトナム戦争でのアメリカの援助、それによる沖縄返還に邁進するようになりました。
親米戦略こそが共産勢力を封じこめる最善の手であると佐藤が考えたのは間違いないでしょう。
しかし、それは三島由紀夫が美がないと言った
戦後民主主義体制を保守することになり、三島は大いに絶望するようになっていきました。
しかし、そんな三島自身も戦後民主主義体制で人気作家になったという事実は否定できない。三島は自分という存在そのものを消し去りたいと思うようになったのではないか?
自己という戦後民主主義スター三島を割腹自殺することにより消去し、戦後体制に反逆した三島由紀夫を誕生させる。現在も三島が新右翼のみならず、保守派に人気、崇拝されるのは割腹自殺という行為があったからです。
もちろん、三島が割腹自殺なんかせずに生きて
戦後体制と戦ったほうが良かった、死ぬべきではなかったという意見も聞きますが、三島自体が自己を消し去りたかったので、あの時にしなくても、いつかはしたのではないか?とは思います。
三島を否定した安岡は体制右翼であり、自民党の歴代総理から絶大な信頼を受けてきました。
本人は戦後体制自体をポツダム、サンフランシスコ体制と否定していましたが、結局はその体制を変えることなく死ぬことになりました。
体制破壊というインパクトの点では安岡正篤は三島由紀夫に完全に負けていると感じます。
三島の割腹自殺自体については賛否両論があると
思いますが、僕個人としては戦後体制を破壊しようした道徳者として評価したいです。