政治家、官僚の行政は『丁寧な説明をする。』とよく言います。しかし『法律問題で無いから問題無し。』と同じく無責任な放言です。いくら丁寧に説明されても、破綻論理では意味が有りません。説得力は全く無しでは、どうされても納得の行くわけが無いです。
科学的に確かな知見だとかで、絶対に安全というのはおかしい話です。必ず手続き論になり、機械的になって面白みも消えます。
科学上の安全は、感性的承認によって成立するという、今回の先生ぴゃんちゃまの論の通りと思います。
原発差し止め高裁逆転取り消しもそうですし、最大手の生活量販店が倒産する時の店内も、そんな機械的、形式主義的な雰囲気に満ちていました。
幸福に科学を求めるとか、価値を創作しようとかすると、国旗国歌で愛国心を高揚させ、愛国心を判断しようとします。挙句、国歌を歌っているか、口の中を覗くようになるのです。
これをした大阪府教育委員会や、そこで校長や教育長をした中原徹や、親分の橋下は、今、森友学園の気色悪い全体主義を見て、どう思っているのでしょうか?
哲学的でも科学的でも、合理主義を突き詰めて行くと、アベのみクス、ホリエモン的になって、必ず功利主義になります。人間性が無くなります。そこには数値の大小、損得感情しかない、極めて下等な唯物論が成立します。
注射針が快い人が、ほとんどいないのは、我々人間が生物で、機械的なものを本能的に嫌うからだと思います。その機械的なものが好きでたまらないというのは、インもらしゃん しかおら無かでしゅ。個人生活で、インもらしゃん の悪かっちゅうこつで無かでしゅよ。公的社会では、はばかれるという意味です。
ゴミのような森本学園の問題に、産廃(ゴミ)が関係しています。劣化し、ただ保守と名乗るだけの似非者が、ゴミに、寄ってたかっている感じがします。
産廃問題には、ある場合、ものすごい利権が発生します。電気が必需品で、必ず儲かる為(福島を無視して)原発利権に群がるのと同じです。ゴミの処理も必須で、生じる利権に群がるのです。
産廃問題では、宮崎県の例が有ります。時間が有れば調べてみると、森本学園の理解に繋がるかも知れません。