多岐にわたって短くまとまりません。
読み方を御任せします。
毎度、幅をとって申し訳有りません。
ライジング内容
素読、暗唱自体が教養で無く、その内容を理解していたのだと思います。現代的答案用紙など無い時代でしたから、用語の暗記など全く関係無かったと思います。法律の学習で言う所の条文の暗記では無く、その条文が複合して、どんな意味を持っているか理解していたのと同じだと思います。
歴史の点数を取る為に、歴史用語集をひたすら繰り返している同級生がおりました。何十年も経過した現代でも、未だ同じのはいるそうです。どの教科に共通しているのは用語の暗記です。知識をを通じて人間性に還元して魂を高める理解を求めず、全国模試の点数や、メダルの勘定ばかりしています。
教養は、理解つまり暗記では無く、知識全体に対しての人間的成長と思います。人間的成長とは、教養が、その個人の人間性を高めた姿と化す事と思います。暗唱や識字が不可能でも、点数なんぞ無関係にすれば、教養は成立させられます。
自己優位の顕示欲、名利栄達を得る為、単なる感覚しかない教条的な絶対善の強要など、それこそ「教養」に不必要です。
昔を生きるには、土と雨と作物が育つのだけに願うしか有りませんでした。武士も農民も、空腹抱えて、常に死を背負って生きていたと思います。そこへ新しい時代が到来し、新しい知識も将来されました。ただ、身分維持や、生命維持の為に生きる時代が消えて、どう生きるか、望む生き方が可能になったのです。個人は裸一貫の人間にだけなって、人間と社会は、どう指向すべきが最良か純粋に考える事が出来たと思います。
そうでなければ、奈良原至の 500 キロ以上の踏破など出来ません。損得勘定をしたら、とても出来るものでは有りません。志の有無深浅だけの問題です。坂本龍馬など、当時の人の脚力には驚嘆させられます。また、歩き、疲れ、腹減る事で、生きている人間への誠実性が高いほど、今の自分は、生きている人間だと実感したはずです。己も皆も、社会を共にする人間の為になるべしと、公共心への純粋性が増して行ったと思います。
自由民権運動の時代の人々に学ぶのは、誰もが人間で有ると言う公共心への志です。これが有るかどうかで、昔も今も、その人自身が決まると思います。人間について、よく理解したので、自然科学も人間のものとして身に付けられたと思います。科学が対象とする自然も、社会も外観的知性です。しかし豊かな人間は、そこから内観的知性を発達させます。ファーブルが好例と思います。道徳哲学の内観的知性も、自然社会科学と言う外観的知性も、人間のすることに変わり無く、互いに補うものです。
高度化した社会は、テレビ、ラジオ、PC 等、人の考える力を奪います。何よりも、日本防衛に必要な戦場と無関係になって、一時の享楽を貪っています。人間が生き物で有り、生きて福を受ける大事を忘れさせています。それゆえ、皆、他人事と成り果て、実際以上の自己顕示力、貧富、名利、栄達などの価値に人を迷わせます。人の為す事で生じる価値とは、須らく人間が基幹でなければなりません。それが狂えば、どんな高学歴でも下賤に堕落すると思います。
ここで、価値観が混乱した時代において、人間に価値の軸を置いた(運動では無い)大衆議論の復活をさせなければなりません。
NHK 月例調査で七月は、自民党 30.7% 対し、支持党無しが 47.0% もいます。大抵、風任せに都民ファーストに流れたような人達と思います。しかし、今、感覚だけで動いている人達を少しでも変えるべきです。
(蛇足)
大東亜論 第三部出版おめでたく存じます。ただ、箱田の詰め腹の真実、密偵ドラキュラの、全く突然の いきなりロシアンルーレット等、何故為したのか、その心境とは、連載では全く解りませんでした。驚いたのが、来島 恒喜の襲撃過程です。まるで共謀罪の教科書に使われそうな、頭山との場面が有り、悔しく思います。罪無き人を巻き添えにせず、法を犯した責任を取り、壮絶に来島が自害するのは理解しても、無差別テロとの違いを表わす「やむなき事情」を、もっと丹念に描いてもらいたかったと思います。これは読者の立場であって、創作立場の容易では無い事情を御察しします。これから大陸編では、安重根も出て来ると思います。その差異も、どうなるか気が揉めます。とはいえ、自由民権運動の誤解を解いて、その歴史的意味の概観を定着させるのが大東亜論の本旨と思います。ゆくゆく御考えの基にして頂けたらと思いです。