人間は生物です。その中に知性感性が魂を生じ、信義などの様々な価値感が生じます。人間は、生物、魂の二つの特徴を合わせ持っています。
唯物論の危険を冒して高森ウインドウズ 342 「モノとしての人間」で講義されたのは、理論に左右されて、足元を見ず、二極一元性な考えに陥る人への警鐘でも有ると思います。この作用をネットは強化します。己も、これには、よく陥るので偉そうな事は言えません。
山尾、倉持問題で信義の問題に引っかかっている人は、疑念より先に、私的な信義と、公的な信義に分けて考えたら如何でしょうか?これは、一つの見解に過ぎません。
人の認識作用は、多重的で、二つの公約数の図のように重る部分も有れば、入れ子式に重なっていると教えられた事が有ります。
私的信義と公的信義が人間の中で両立しても不思議無しと思います。つまり、人間には私的領域と公的領域が有るのです。
私的領域(プライベート)は、当然ながら、公的領域において不干渉にすべき人権です。
私的な領域で構築された信義なら、それは私的信義です。主観でしか有りません。その主観でも、客観的に思考された末の信義ならば、社会的、公的なものに成り得ます。
社会的、公的な信義は、個人的、また生物本能から来る私的なものとは違い、客観的に論が積み上げられたものです。
道場では、この公的領域をとって、山尾議員と倉持先生を擁護すべきとされています。
もちろん、私的領域が公的領域に侵入している事が有ります。これを公私混同と言うのだと思います。公私混同の好例が、安倍晋三です。下賤な私的領域が、公的領域に侵入し、社会を堕落させています。
私的領域が、公的領域を乱すなら、社会問題、犯罪として排除の対象です。
しかし、山尾議員と倉持先生には、皇室問題で功績があったように、公私混同は見られません。そう客観的に判断可能です。公私混同が見られないなら、私的領域(プライベート)は切り離して考慮すべきだと言う事です。
人の公私の領域を、客観的思考も無く、個人的主観での批判なら、公的な批判のつもりでも、それは、自分の私的領域から、主観的に勝手を言うに過ぎないと思います。