「極度に徹底した正義観念――もしくは
病的に近い潔癖に禍(わざわい)された御蔭で、
奈良原到翁は殆んど食うや喰わずの惨憺たる
一生を終わったのであった」
自分は、人気投票で高場乱を第一にしました。己に欠けているものが多く、深く広く心と外界の関係を知りたいと願い求めるからです。若い人ほど一般的には、こうした方面に傾くでしょう。誤りを承知で書けば、高場乱は、人間に学問で『加える価値』を示したと思います。
対して、奈良原至は、高場乱にて学問による『加える価値』を受け、師亡き後は、徹底的に個人を貫き、磨こうと、己だけを見つめて、余計なものを一切廃して見向きもせず『捨てる価値』にて、人間として素っ裸になって、本来持っている人間の価値だけを見つめる事に重点を置いたのではないでしょうか?
人間自身が価値を生み出します。知識、学歴がなくても、自分自身の人間性に目覚めていれば、これに従う事により、知性的に感性的に優れた人と同じになれると思います。もちろん、読書、見聞、現場で得る『加える価値』は必要です。しかし、己ひとつ、常識ひとつになる『捨てる価値』も重要です。これが無ければ、学道、芸道、徳道で得るものは画餅に帰してしまいます。先生が、常識で独立した個人を掲げるのは、この為と思います。
常識という素っ裸の人間の価値が無ければ、下手に学問が有っても、これに振り回され、鼻にかけ、常識という人間に自然に備わっている価値に反し、非人間的、反知性的、不人情になる標本は数え切れません。
他人事意見なのは承知で書きます。
何時も己のやる事に損得勘定をかけて、頭をひねくり、ひねくりしておる者よりも、奈良原至のような生き方は、自由で月のように静かで、澄みきって清い人生だと思います。
奈良原至のような生き方が、一番の人気の有る所は、ここだと思うのです。何の履歴も必要無い、人間の素っ裸の価値を生きたのです。己も奈良原至のような生き方に惹かれます。
動物であって本能のままに欲深く生きる人間では無く、しかも価値観を有する人間に生まれて、名利損得などの有形無形に即するのでは無く、常に己と言う人間の価値は何かを追求する姿です。
まず、上品な者には真似できません。しかし、庶民が、自分の理想を追う時、高度な才能、恵まれた環境なんぞ関係無く、理想を追う姿として、もっとも身近で有り、普遍的な御本手が奈良原至なのだと思います。
現代人は、明治まで文明が後退しただけで、心身を維持出来なくなって発狂するのではないでないかと考える時が有ります。
今の文明に即物出来無くなった己を考えて見た方が良いです。何もかも無くして、己だけになった時に、一体、何が残るのか?その時に残った己が、己を現す価値です。人生の一大事です。