丑三 やギ の削除コメント


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ごめんしゃい。さっき駄文の長過ぎましたね。割って入るようで申し訳ないです。

確かに対案によって議論は促されます。これは体系的なものでなければなりません。体系的な考えを両者が持っていなければなりません。また、体系的な考えを持つ人でも、議論を通じて昇華の余地は限りなく有ると思います。従って、議論は絶対に必要です。

ただ、その前に批判をされても、それに真面目に答える態度が無く、ただ「対案を出せ」では議論になりません。報道が、議論する種を周知させる事も出来ません。ゴー宣改憲では、一番、これを危惧します。

議論する気の無い者では、議論のしようが無いのです。安倍晋三は、山尾改憲案に対して、徹底的に黙殺しにかかって来るでしょう。安倍晋三に議論をさせるなら、そこに、識者を含めて国民が、議論に如何ほど参加してくれるか、また、そうさせられるかにかかってきます。そうでなければ、安倍晋三は議論をしようとしないでしょう。晋三の立場を維持するには、有権者の顔を見なければならないからです。

己は、件の番組を見ていないので、番組とは関係無く書いています。「対案を出せ」については、まず、批判に答える態度がなければならないと思います。議論から逃げる言葉に思えます。この事が問題と考えます。

それで青木氏は、次の発言となったと思います。

「僕はジャーナリストという存在がはたして対案を出すべき存在なのかというのを僕はずっと疑問に思ってるんですよ。『こおろぎは鳴き続けた嵐の夜』という有名なジャーナリストが綴った句ですけれど、僕ら基本的には鳴き続けるのがジャーナリストの仕事であって、対案を出すのはもしかすればテレビ朝日だったり番組の責任かもしれないし、あるいは政治学者かもしれないけど、少なくともジャーナリストの立場で安倍政権のこれがダメだからこれに対する対案を出すのが僕は仕事だとは思ってない」

室井氏も対案を出せについての発言。
「なんでよ!?おかしい、おかしくない?なんで?」
「えぇ!?頭おかしぃ…」

(No 147 user さんの御報告のまま。)

小松菜は、田原氏の厳しい発言にも、そっちのけで「対案を出せ。」にこだわっています。対案が、必ず無けれなならない法則は有りません。国民の大半は、対案など持っていないでしょう。しかし、批判と反駁を見て考える事が初めて出来ると思います。「対案を出せ。」は、もっともです。しかし、報道者としての立場を理解する必要が有ります。小松アナについての違和感が、ここに有ります。

青木氏も、自分の考えが有れば、はっきり言ってやればよいと思います。ここが討論番組に出ている青木氏への疑問です。ただ、普通、発言の通りと思います。報道が専門という事で対案を表明したら、報道者として使命を果たせるのかを考えていると思います。

それに対案は、体系的で無ければならず、小松アナが言うように、時間が無い中で、どれだけ対案について説明が可能なのでしょうか?討論は「議論」番組です。議論の中で、対案に関わるものが浮かび上がって来るはずです。先生ぴゃんにさえ体系的な対案を説明するのは難しいでしょう。これだけで、時間切れになるはずです。議論(番組)になりません。

簡単明瞭に、こうするべきだと言う話は有ったと思いますが、どうでしょうか?それを差し置いて、小松姉は、対案、対案とこだわり、議論を頭に入れず、「対案を出せ」に終始していた印象を持ちます。もし、この通りなら小松アナは議論を知らないし、議論をしようともしていなかったと思います。

再び、長駄文になり申し訳ないです。まとめる時間が乏しいです。

(高森先生の「平成大嘗祭秘話」にはとても感銘を受けました。外食して、御金を対価として払っていても「頂きます」と言う心は、こうした精神から来るのだと思います。神社に占いはいらない、御神力さえ有ればいいのだとする人がおります。しかし、陛下も人間として御身を現されている以上、人間としての精一杯の心を込めた御祈りが占いとなって現れておられると思います。確かに、神様を占うのは否定されるべきです。ただ、神様に御奉仕する立場で、精一杯の事をするのは御許しを頂戴する事が出来ると思います。無私の御奉仕の旧家の方は、この心を伝承されていると思います。)

日時
2018-01-03 21:36
投稿者
丑三 やギ
記事
「醜い国・日本の権威主義と忖度」小林よしのりライジング Vol.252
No.
180