「新・堕落論」に数々の論が紹介されています。しかし、この本に一貫している要旨の為に集められたと思います。ここだけに目が奪われると本旨を見落とす危険が有ると思います。
よしりん先生は、毀誉褒貶が激しく誤解されやすいとされます。先生も、御自分の主張が何故、知識人にさえ伝わら無いのかを考えて「新・堕落論」を描くに到ったと思います。
よしりん先生が、これまで展開されてきた論考は難解なものなのでしょうか?高度な抽象的理論で有り、個人の格差によって意見の激変するものなのでしょうか?
単純に考えれば、人間の考えは、人間に理解可能としなければ人間同士の交流は不可能です。ここで、個人的、集団的理解の妨げになるのは価値観の相違です。しかし、価値は多様であると言うのは一点おかしいです。人間と言う点において同じだからです。
価値観の相違とは、大雑把に先天的性根、境遇経験の違い、文化の特徴が挙げられます。しかし、よしりん先生が取り上げてきた論考の数々は、道徳的高度な抽象理論は必要無いものです。ただ、事実を見ての客観的評価を加えるのものが、ほとんどです。先天的性根、境遇経験の違いで、巨大に論考の主旨が捻じ曲げられるものでは有りません。そして、同じ日本国民で、文化の相違は最低限に抑えられています。
それなのに、議論が全く噛み合わ無いばかりか、単なる誹謗中傷の多さは、何故なんだと奇妙に感じます。これほど、考えや着眼点が違うものなのでしょうか?反面、常識に照らしても、明確な支離滅裂な論理がまかり通っています。
こうなると人間の存在自体を疑わなければなりません。人間とは何か?
「新・堕落論」には、火事場で一生懸命、生命財産を守る為に動く人がいる一方、火事の火で暖を採る話が有ります。戦中と戦後の境の一日で道徳が一変した話が有ります。証拠も無い噂話に過ぎ無いものを真実として強情に思い込む話が有ります。これは何故か?
人間は生物です。人間は、生物で有る野性の本能を併せ持ちながら、人間は知性、感性を持つ事によって霊長類の長となりました。しかし、先の不条理な行動を考えると、人間は野性、知性、感性の調和が不完全な生物のようです。知性を持つ以上、この不調和を矯正可能なはずです。では、不調和の矯正が出来無いのは何故か?
知性、感性による対象の分析が多岐に渡らず未熟で、自己中心的で有るの一点に尽きると思います。
他に、時間と空間に影響される事です。これが激変した場合は、総括が行われるべきです。しかし、時間と空間と共に在るのが人間です。しかも、現在はネットの普及により、その変化は著しいのが普通と見なければなりません。
野性、知性、感性の不充分な者は、過去に囚われて粘着します。無意味です。他者と共に時間と空間の影響における知性、感性の変化に応じるべきです。人間が、時間と空間に影響される事実は、人間が、初めから体系として完成された存在で無い事を示しています。
この影響変化は、時間が続く限り未来永劫続くのです。人間の時間と空間による影響を認めず、過去の言動に固執して、事細かく誹謗粘着するのは、自身の変化発展を否定し、変化発展を続ける人間の下座に居座りながら不届き無礼な言語を投げつける態度です。過去に固執する非難は、己の惨めと気付くべきです。
以上から人間は、時間と空間の影響を受けながら、向上して生きようとする存在だという事です。その為、劣等で在るより優等で在ろうとする習性が働くと思います。この習性は、生物としての習性です。何故、こうした存在なのかは、こうした生命体として、すでに存在しているからとしか言いようがないです。
時間と空間の影響を受けながら、向上して生きようとする認識の無い者は、知性、感性が未熟で、自己中心で在るので、表面上の理屈に安堵して、他に心を配る事が出来ず、我見に固執し、気高い行為を思って己を律せ無いので恥を感じません。右ヨタろー、左ヨタろーとは、この事です。
これが、教育有る者にも居るのは、知識、理論を金銭、持ち物のように勘違いしているからでしょう。すなわち、金持ち、物持ちは優れているものと思い込んでいるようです。教育が有るから、かえって己が絶対で有ると自己中心になって欺瞞に平然としていられるのです。上と同じ浅薄な存在です。
教育の有る者まで、こうでは、幼稚な人生観、我執の浅薄たちが大挙して後に続く事になります。
欺瞞が充満している社会では、知識、感性を率先すべき立場の者は、勇気を持って浅薄に同調せず、一時の誹謗に迎合せず、事実から導かれた道理に導く責任が有ります。後に示す議論の先端に立って、社会欺瞞の修正に動くべきです。しかし、善導が有ったとしても、知性、感性の未熟な自己中心者は、あくまで偏狭な立場から動こうとしません。
この修整に必要なものは何か?
「新・堕落論」で、よしりん先生は「坂口安吾の堕落論」に答えを見出しています。すなわち、優越嗜好を捨てて、生命体としての純なる人間に戻れとします。これが『堕落』の本質と思いました。
詳細に言えば、よしりん先生は、御自分の目前にある原稿に、ひたすら向かう行為と同じ事を描いています。人生は目前のみ、事実を事実として認め、己が一番という本能習性を捨て、自己中心を辞め、優等と思われたいが為に、事実を検証せずして型に嵌まって排他的になってはいけない。野性に誘惑されずに、事実に沿って、知性、感性を働かせ、人間という霊長類を極めた生命力を発揮するよう呼びかけています。
実際に、堕落して余計事を捨て去り、真っ裸の人間という生命力になりきれば、人間の知性、感性が自然に働いて、人間の道理が常識として通るようになると思います。意見は違っても議論は通じるようになると思います。一見して破綻した論に恥じるようになり、事実に基づいて、人間を基準にした判断が行われるようになると思います。虚栄の叫びは静まる方に動き、度し難い見栄強情は減ると思います。
終局、人間とは、生命体として如何なる態度を採るかにかかると思います。教育の有る無しでは有りません。考えてみれば、人間価値は、人間を基準にしている以上、人間的態度が、しっかりするだけで、知識が無くても人間を基準にした精確な判断は理論上可能です。
後は、知性、感性による対象の分析を多岐に行うよう努力し、自己中心にならず、社会で知識、感性の不足を補い合えば良いのです。すなわち学校、議論、読書、映画等です。
しかし、個人が生命力に覚醒し、社会が個人を補完する使命を覚醒しなければ、公共教育も自己教育も家庭教育も、無意味になるどころか有害になります。知性、感性の主体で在ると自覚の無ければ、野性的、原始的人情に引きづられて、優越感に浸りたいが為の、自己中心的で、小賢しい怜悧を使い回す野生生物(畜類)を出現させるだけです。
『堕落』を一言で言い換えれば、身心脱落、脱落身心でしょうか?本職の意とは、かけ離れていると思います。しかし、人生は悟り得るものでは無いと思います、悟って完了では、カルト教主のように、それ以上の向上は有りえなくなってしまいます。
「新・堕落論」で、一神教(のよう)に信じるものが有れば、虚無から抜け出せるとする教示を欺瞞としたのは、責任転嫁だからと思います。生命力を自覚し、生命力の主体としての責任を己で持たなければ、虚無は再来するからです。
人間は必ず死ぬのです。人間自体がトカトントン自体です。死を常に突きつけられている人間は、浅薄な優越感など一撃で虚無になります。ならば、真実人間を生きるのが良いはずです。この呼びかけに答えるべきです。それでも振り向けない者は如何とも仕様が有りません。形無き人間の性根に手の付けようが有りません。方法論では、どうにもならないとは、この事と思います。
よしりん先生が行く年くる年を悟って、何時まで気力の持つか分からんと嘆きながら、創作意欲が全然衰えないと矛盾を言うのは、そういう生命力になってしまっているからと思います。
生命力の流れが強く、正常を保てれば、生命に逆行した自死は発生しません。自然に生命が尽きるまで、生命力を全うしようとします。これは何故かを考えても無意味です。人間は、そういう存在なのです。生命力に境遇的、身体的先天性、精神的機縁、個人差が有るのは悲しい事です。社会の相互扶助で共に生きて行きたいです。
よしりん本は、優越嗜好で、虚飾を張りたい大多数には、読みやすく都合の良過ぎました。この者らは、畜類野性生物として、原始的人情を何処までも押し通す連中です。此奴らは、単なるルサンチマンの分際で、小賢しい怜悧でもって吠えるだけしか能の無い哀れな知性、感性の薄い生物でしか有りません。こんな事に火が着いたように猛進するなら、事実に即して、己の頭に火を着けるのが有効と思います。
この大多数がいる限り、大左傾が大右傾となり、大右傾が大左傾となり、平衡を取るのは難しく、振り返る者が増えなければ、今後も悪あがきの綱渡りは続きます。これが綱引きなら、よしりん側の与力となって流れを変えたいです。