門下生動画が増えて、溜めると、なかなか全部聴くのが大変になって来ました。どんどん盛況にしてください。
ながら聴きが難しい性分で、聴きながら細部を結構忘れて行く己です。申し訳無いです。
不足の多い一部の感想です。
書評で竹田青嗣氏が紹介されていて「人が矛盾や不合理(不条理)を感じた時に、完璧な社会を実現するまで戦う〜運動家になるか、または「なるようになるしかない」と言う諦観〜ニヒリストになるか、二者選択で無く」現実の中で、自ら学んで、考えて公論を広げる第三者の道が、ゴー宣道場と言う御話が印象に残りました。
己も、諦めるのは絶対に嫌です。しかし現実は、ニヒリストになるしかないです。ネットの登場でも駄弁るしか有りませんでした。
しかし、現実に向き合いながら、理念の実現に可能性が開けたのは、先生ぴゃんの登場というのは、非常にうなづけるものが有ります。
在日中華の人の御話を聞いた事が有ります。現在の台湾、香港等で、民主的自由を求めて抵抗する報道とは違い、一世代上になると、現実的に社会を変えるのは徹底的に諦めています。まるで、辺野古移設選挙のようです。
そこで、こうした人達は何処へ目を向けるかと言えば、己の変革です。己のみ見て、他を見ない考えになっています。後は、成り行き任せです。
大陸は地続きで、異種志向の人々が激しく交錯し、身内に閉じこまざる負えなかった歴史から、こうした考えに落ち着いたと思われ、一概に批判は出来ません。
しかし、人間の可能性を広げられる社会に在っては、これを受け入れる事は出来ません。残念ながら、こうした方々とは永遠に分かり合えないと思います。
自ら構成し、自ら選んだ形になっている現在の社会で、絶対に諦めず、視野狭窄するのでなく、議論によって、理性論理の実現に必死になれるゴー宣道場は、非常に有り難いものです。心は常に、ゴー宣道場に取り憑いていたいです。
他の方々も、たくさん考えておられて、己が恥ずかしく思います。反転可能性とか、色々、勉強になりました。こう言う語は、後になって他で結びついて理解の広がるものになると思います。
珈琲焙煎さんの体験も、やギ この前、気ちのいの刃物を振り下ろしている時の人の道徳性は、デンデンを書いていたので興味深かったです。「犯罪に巻き込まれると後が大変」と言うのを、早く聞いてみたいです。
誰もが、権力に生命、自由、財産、人権を思うようにされたら敵わないとする点こそ、己の頭に火が着いた公論の動機になるからです。左右ヨタろーや、ニヒリストの人達には、この点を考えてもらいたいです。
ゴー宣道場に偏見を持つ人達は、是非、ネットからでも参加して欲しいです。本当の議論の場が出来れば、先生ぴゃんは手を引くとまで宣言しています。まずは、道場というものを知ってから評価して欲しいです。
先生ぴゃんは「感受する人」との御話が有りました。言説の整合性は、確かに大事です。ただ、論に凝り固まるのでは無く、先生ぴゃんは、感受によって発言し、そこから論を構成して行くというのは的を得ていると思いました。
先生ぴゃんは、人間が猿だった時からの野生的本能で物事を捉えて、そこから理性で物事を考え、論を組み立てて行くのではないでしょうか。事実を見て事実に沿って、事実から離れずに考え、観念的に引き篭もって事実から遊離した論にならず、血の通った生命力のこもった人間の考えにして行くのだと感じます。
従って、先生ぴゃんの瞬間的に起こった野生の叫びを、後から、いちいち論理的に整合性を付けても無駄な事と思います。古に言う、まさに住する所無くして、その心を生じさせているのですから、精確さを求めて読み取ると、全てが誤読になって行くと思います。よしりん本の読解には、人の野生と理性との往復が必要と思います。
己の生命の脈を、先生ぴゃんの脈に合わせていかなければならないと思います。先生ぴゃんの論に予定調和は有り得ません。
まとまりなく失礼しました。多岐に駄長文になりました。感想は、何時も、こうなります。