買い出しに行って、そのまま店の飲食コーナーで巻き寿司数本の夕飯を済ましました。物足りなくて久しぶりにアイスでも食うかと冷蔵庫を覗くと MOW が在りましたモウ!しかし、森永なので昭恵を思い出して辞めました。
大東亜を思って、明治のスーパーカップを買ったら硬かったです。ひと口したら、めぇ〜ジと、気付いた訳でないですけれども、前回 No 41 で「よしりん辻説法の福駄山羊〜」と書いてしまいました。福駄ヤギは、SPA!ゴー宣のものでした。訂正します。
頭の空き容量が出来た時に、ふと気付きます。やギ が山羊について間違えるなんて……福駄ヤギのヤギ髭、ヤギ耳、ヤギ角は絵の濃さに必須ですね。
日大アメフト監督もコーチも白々しいです。もりかけ文書の安倍晋三と同じです。両方とも、道徳、法治を知りながら蔑ろにして、詭弁で逃げ切るしか頭にありません。あのようにシラを切って断固言い続けるつもりでしょう。
いじめ訴訟で知っている限り、大概、この手が使われています。法廷審議不能で、原告は苦しく、悔しい立場で闘うしかありません。詩織さんと同じです。
悪質タックルは、映像拡散で世論があるので少しは増しかも知れません。もりかけ文書もそうです。しかし、いじめ訴訟では原告却下になる例が相次いでいます。
これでは、泥棒だって、盗みをしたなんて心外だ、そこに置いてあったから取ったのであって、まさか人のものなんて思いもしなかったと言えば通る事になります。それくらい非常識です。
全く恥がありません。己が人である事を知らず、人としての規範を知らず、従って道徳を知らず、人としての生命力が他を求める欲となっています。
名利に、ただ突き動かされている者は、人として生命力のあるか疑います。人で無しと思うしかないです。
法律は憲法を代表に、道徳が社会規範として顕在化したものとされています。しかし、道徳を持ち合わせない者に権力を握られると、当たり前のように法治は無力化されます。これに世論が鈍感なら打つ手がありません。
道徳の教科化は、大津のいじめ死に端を発しています。(己は未だ自死で無い可能性を疑っています。)道徳を知らぬ者が、教科に道徳を加えるとは偽善の偽装にもなりません。
アメフト謀略にしても、安倍晋三にしても、いじめ隠蔽の件にしても、法を取り戻すことは、道徳を取り戻す事であり、人としての生命力、人の自然な心の在り方を取り戻す闘いと思います。従って特に、憲法では負けてはならないと思います。
自然という事は、何事かに捉われてははいけないものです。ここを余り言うと窮屈になって、左右ヨタろーや、セクハラヒステリーとなります。先生の言うバランス感覚が必要と思います。
人を格付ける心が、権力の前で屈する事があってはならないと思います。権力、名利、損得に、ひたすら囚われている者たちへの常なる宣戦布告を忘れたくは無いものです。先生の仰るように飽きては負けです。