オウムの死刑執行に当たって覚え書き。
警告
読むと時間の損失と思う可能性があります。
死刑が決まり、命乞いをする者を目の前にしたら、己が死刑執行のボタン三つのうちの一つを押せるかと言えば押せません。
しかし代替えとして、ただの終身刑にはしないでしょう。
世の中、事故や不治の病いなどで、強制的に死を受け入れなければならない罪無き人がいます。気ちのいに罪無く殺される人もいます。オウム犯罪も同じです。
別議に、社会の重荷になるからと定年制を強いて、老いたら死んでもらった方のいいと言う下賤もいます。これなど、おそらく、その歳になった己を勘定に入れて無い卑怯です。一方、この意見は、社会機能として死刑を認めるものと思います。
自然の罪無き理不尽な死は受け入れさせて、人工の罪有る理不尽な死を災禍した者に、社会的制裁としての死を赦免するのは受容、非受容の考えがあります。
赦免に受容の立場を取る場合、生命自身の人間が、生命を断つ矛盾と、人権的な配慮を主張します。議論は、二項対立して終着していません。終着するものでも無いと思います。
もし、社会機能としての死を受け入れなければ、当然、軍事防衛の用を考えない事になります。そうすると、国家規模の人工による死の強制のあった時は、自ら、人権を侵害する事になります。
死を伴う軍事防衛の用を考えれば、社会機能としての死刑を受容しなければ、人間の社会的秩序に矛盾をきたします。
個人的に死の強制は拒否
社会的に死の強制は必要
この二項対立は、やはり、己の中で葛藤します。
しかし、死を伴う軍事防衛を必要とし、是とするなら、死刑制度を受容しなければなりません。但し、冤罪は絶対に許容不可能は当然です。
第三の道として、大罪人には、一生涯、最低限の食事、衛生面のみを与えて、約一坪に監禁、もしくは重労働を与え、死を選んだ方のましな生を強制し、制裁、反省を課す方法もあります。しかし、実現性、経費、人権的配慮を考えると非現実的です。
ここまで来なくても、一般的で言い尽くされています。
とりあえず結論、凡百!