丑三 やギ の削除コメント



>>84
M.O さん、MOW 駄長文を読んでくださいまして有り難うございます。

「体罰は一種の暴力です。感情が伴います」が、おっしゃる通り、常に大前提となる事は必ずしもないと思います。しかし、怒りの感情を伴う時が暴力に(体罰にも)有るから危険なのです。

「アントニオ猪木のビンタ」は、ビンタするなら、上手にビンタしろと言う事です。

しかし、実際には、目が腫れて膨れ上がる、歯を折る、サッカーでもバレーでも支柱にビンタで叩きつけて重傷を負わせる(在宅起訴か、逮捕されて有罪になりました。)こう言う事が起きているのです。

そして、ビンタは作用、反作用の害を伴います。一度、御自分で御自分の顔を速水が宮川選手にしたくらいのビンタを喰らわせて見てください。掌底を少し含めたり、耳の近く、頰の骨にも命中させてみてください。目眩のします。脳震盪にもなります。危険な競技の最中に更に危険になります。女子が、屈強な男のビンタを受けるのです。同じように実験してみてください。同じくらいにするのですよ。

座禅の警策で、僧侶が感情的になる事もあります。通常は警策は平たい方で打ちます。しかし時に、狭い面で肩を殴られるんです。痛えってもんじゃありません。続けてやられますからね。熱の出て、先生の首のひん曲のり所ではありません。障害の残ります。

主に禅宗では、生活規則を決められた通り行う「だけが」修行です。この意味は今は置いておきます。この生活は静かで慈悲深いと思ったら大間違いです。常に緊張と恐怖と焦燥で苛立ち続けるのは日常茶飯事です。つまり怒号と罵声、理不尽な制裁、暴力があります。そして、異常に神経が洗練されて神経質を患います。まい、大体は初めのうちですね。でも、経験を積んでも同じ現象が起きます。

トランペッターが、ブチ切れたと書きました。しかし、これは客観であって、本当にブチ切れたかわかりません。インタビューなんかしてませんもん。ビンタをした一種の表現と捉えてください。

コメント欄が、何か窮屈になってきましたね。

M.Oさんだって、ブチ切れたのでな無くて、必要になったから手を出したと解釈していますね。これは解釈だけですよね。

「いくら何でも、ステージ上で簡単にブチ切れるような人ではないです。」と言うのは、これを日野皓正に直接聞いたのですか。この人に、日常的に接していて確信が持てているのですか。こう言う部分に拘ってもしょーもないな。

「感情的になったから、手が出るのだ」という前提で、全てを言っているのではありません。危険性について言っています。この危険性は高いのです。

また、簡単な図式に当てはまると言われそうですが、自衛隊は常に理性的に動ける事を想定していますか。そうでない事を含めて、法整備を抜かりなくしようと言う事ではないですか。自衛隊の中にも、右ヨタろーの無頭脳がいるのが判明しています。何時か、自衛隊が国民に銃を向け、国民が大量に殺されるかも知れない事も視野に入れておかなければなりません。

M.O さんの主張は『こんな平和な日本で、何が起こると言うんですか!?』と尋ねられているような感じのします。

己は、危険な競技において、常識的な体罰が出るのを否定していません。指導としての体罰か、殺傷としての暴力に繋がっていないか、しかっと判断されるべきと書いています。文章力の不足で MOW しわけないです。

理性的な指導者に対して失礼だとおっしゃいますが、そうで無くなる危険性を言っています。

また、例えの悪かですが、理性的な運転者が動転して、理性を失う時もあるでしょう、これは何かの機縁で簡単になる場合があります。子どもが大怪我をして病院に担ぎ込まれた時とかあります。危険な追い越しをされて頭に来た時とかもあります。

十把一絡げに論じているのは、M.O さん自身です。人は理性的な行動が常に保てて「間違いの無い」清廉潔白の人がいるのだと思い込んではいませんか。

正義論を読み直されたそうですね。書名を間違えていたらすみません。読解出来ていますか。己も自信は無いです。あいこですかね。どうでしょうか。

天から与えられた理性を信じるのは結構です。しかし、人間の本性に純粋まっすぐ君の論理を入れたら物事を見誤ります。人間という存在に対して、傲慢不遜の大失礼に繋がります。それで悪事に走ったのがオウムです。

もちろん、陛下のような人はいます。特に陛下は、厳密に心身を律せられておいでです。

ここで重要なのは、陛下は聖域という隔離された空間に、常に身を置いておられるという事です。

社寺内でも同じです。特に道場を標榜している所ではそうです。

刑務所も同じかな。隔離された空間では、人は悪を為す事は少ないのです。刑務所内では、大変良い人でも、出所すれば悪事を為して、舞い戻るのを繰り返す人がいます。それと同じです。

また、どちらかといえばですが、家庭学習よりも、学校、学習塾の方が杜撰なく暗記時間の過ごせるのです。試験のあった方が偏差値に向かって、より勉められるのです。

規則で縛られている効果でしょうか。修行の効果も同じです。
(決定的な違いのあれば道心の有無にあります。心の事ですから、極めて抽象的目的論の有無になります。)

これに似た拘束を恐怖と暴力に求める危険性を申しています。

陛下は、ずっと聖域内で、四六時中、修行の生活をされて、人生を全うされようとしておられます。真似は、普通とてつもなく不可能です。

生ぬるく人権を認められて日常生活をしている者が、理性を高潔に保ちながら、常に抜かり無いと思うのは、非常に危険な原理主義です。

正義の怒りで正義を忘れ、正義の中で正義を見誤り、正義で殺す事態があり得るのです。これを忘れたら、純粋まっすぐ君です。もっとも全員そうだとはおしゃっていないのは分かっています。

己は、理性的な人を対象に批判しているのではありません。そこを分かってください。

日時
2018-09-16 13:57
投稿者
丑三 やギ
記事
「体操競技には体罰が必要ではないか?」小林よしのりライジング Vol.284
No.
85