丑三 やギ の削除コメント



礼儀として書きます。本号のライジングで、よしりん先生は、暴力に嫌悪感を持ち、非道な暴力はいけないとする『原則』を説いた上で、危険な競技には、理性的な指導として体罰が必要ではないかと言う『多様性』を説かれました。己は、これに賛同します。
(多様性も、ひとつの原則です。)

己は >>83 で、先生の言う『原則』の「危険性」を だらだらと強調して書きました。強調して書いたがゆえに『多様性』を否定するものとして受け取られた人もいるようです。しかし『多様性』を否定するもので無いと明言してあります。

問題は、次を書いた所です。

>>83
『無頭脳な指導者は、己の思い込みと、己の狭過ぎる経験だけを絶対にします 。そして、過ギタ事をしても、下賤に限って己の無能、低脳、無知に気付きません。優れた選手が、優れた指導者である法則は無いです。

暴力を受けた利点を挙げる人が必ずおります。しかし、運命(注 因果律、宿善)の結果でしかありません。個人の気根と時と場合によって利点も欠点も入れ替わります。結果が欠点の場合、身体的、精神的損失が生じます。この場合は、人生を台無しにする可能性があります。』

よしりん先生も、不快な体罰、暴力を子の時に受けた事が、後の利点に繋がったとライジングに記してあります。つまり己は、よしりん先生を間接的に無頭脳、下賤、呼ばわりした事になります。

言い訳をすれば、戸塚宏のような者がゴロゴロいる以上、あのように書くしかありませんでした。よしりん先生の言は、微塵も対象にしていませんでした。先生の主旨を分かるからです。

しかし、この言い訳は、>>83 で書きたくありませんでした。文字通り、言い訳がましいからです。それに己も「狭過ぎる経験だけを」元にして理屈を道理じみて書いたので、読み取って頂けると信じていたからです。

一方、もしかしたら、トッキーさんに、口汚くコメント欄で罵られ、先生が奥さんを罵倒したようにブログで叩きのめされるのを覚悟していました。

けれども、読み取って頂けたか、単なる薄バカとして気にも留めなかったか、上のような事はありませんでした。無礼を御詫びしつつ、御礼?申し上げます。読み取って頂けたとしたら、信じてよかったです。

また、蛇足として腹蔵無く甘えて申します。

確かに毒と嫌悪感は違います。これを前提として「あの人の口は毒毒しくて非常に嫌で気に喰わない。」と言う時。毒と嫌悪感は繋がるものとも言えます。ですから、ニュアンス使いのすれ違いで、コメント欄を去ると言った人がいたのは残念です。コメントを続けてもいいと思います。

もう一つ加えます。
いじめや、閉鎖された空間で暴行死、自殺者が出ても、公僕は調査検証公開共有対策の大事よりも、賠償に到れば、己の奉公する自治体が吹っ飛んで、己は職を失う事や、己の責任から逃れる保身の念を第一にする事が、ほとんどです。また、関係ない部署でも、不正を把握しながら見て見ぬ振りをして、苦しんでいる納税者を助け無い公僕もいます。

一概に責める気は無いです。これを言う己も、家族と生活を天秤にかけてしまいます。貧乏暇無しなら尚更です。しかし、服務の宣誓をして税金を食い扶持にしている以上、それを直接言う事は元より、やってはならない事と思います。里が知れてしまいます。今では全国が、そうなってしまっておりますが。納税者の苦しみよりも、公僕の生活が優先される道理は無しです。

大川小の津波避難誘導過失のように、控訴審まで賠償金を上乗せさせられながら、最高裁に上告する暴挙など、とても不可能です。公務員の人には反感を持たれるかも知れません、しかし、理解して頂きたいと思います。

もっと遅くに投稿しようと用意していましたが、更新されてしまう時間帯になってしまう確率が高くなりました。早目に投稿しておきます。

日時
2018-09-18 14:10
投稿者
丑三 やギ
記事
「体操競技には体罰が必要ではないか?」小林よしのりライジング Vol.284
No.
117