職能集団をマニュアル化、つまり標準化する事は不可能です。全ての職能を標準化する発想自体、常識と違い理解出来ません。機械化出来る仕事も人がすれば変わります。
同じ道具、同じ茶で点てても、人が違えば、味も違うようになります。また、水を焼けば湯の出来ると普通、考えますが、実際は違います。薪で風呂を沸かす時、人が違えば湯相の良悪は違い、誰が湯を沸かしたか見ていなくても当てる事が可能です。これには工夫と経験の属人化の必要です。不出来な己には無理でした。しかし、機械的作業も中身の無いコンテンツにするのでは無く、志しで人を通せば個性化出来る例の一つです。
これから辛辣な書き方を許してください。
今回の退会者の人は、日常生活が標準化されきった生活しか体験されて来なかったのではないでしょうか。
標準化された生活にやりがいを見付けられず、見付けようとせず、また、見付ける事を知らず、これを体感で教えてくれる人に恵まれ無かったかと思います。それで、毎日が辛くて希望を見出せで無いのではないでしょうか。
しかし、やりがいの有りそうな充実した有能者は、嫌でも目に入って来ます。そうした世界は在ると判っても、羨ましくて認めたく無い、だから、やりがいある生活は無いと否定して、全ては標準化されなければならないになってしまったかと思います。つまり、退会された人は、思考が唯物化、共産化しているのではないでしょうか。悪しき平等の原理主義です。
同時に、無意識的に強い転生願望が有ると思います。転生の望み先は、きっと標準化された世界では無く、自分の能力は誰よりも優れていて、みんなから羨望の眼差しで見られ、金銭、容姿、体格、品性、頭脳、名誉に恵まれ、好みの異性に囲まれて、最高の生活状態を望むはずです。
自然に生きているなら、こうした妄想は健全です。実は誰にでも有る心理です。一方、実際は現実と妄想を分けて、現実を受け入れ、これを乗り越えて望みは遠くても近づいて生きたいと願うのも普通です。しかし、そう出来無いのは、この世の現実と自分の理想と対峙させられない為、原理でしか価値観を構築出来無いと見ます。
もっとも、理想的に恵まれた者が現実にいて、これを使いこなす器量に欠け、知性も感性も行いも増長慢になって、醜態を晒して、天性の恵みを台無しにしているのも多いです。
各自の能力は、LGBT と同じく生まれ持ってしまったものです。何を望もうと天性は変えられません。与えられた中で、どう生きて行こうとするかです。
成長しようとせず、目を閉じた裏しか見ず、遥か遠くへ行こうとしなければ、世界は暗くなるだけです。己の頭蓋の中に閉じこもっては駄めぇ。
偏狭過ぎるのが問題です。トンデモ見聞録と今回も重なりました。人の能力格差に、勝手に傷付いて世を呪う「過剰に思い込むような病的な被害妄想」かのようです。
高い職能(属人化された)生活も、その人にとっては必死な日常生活に過ぎません。これは、趣味の延長が仕事のようで羨ましくても、これはこれで苦難です。生きて行くなら日常生活以外は有りません。他にする事は無いはずです。日々の生活のいちいちを大事にしないと、道理の通らぬ妄想に生きがいを求めるように成り下がります。
自然に在るべき世界は、自分の妄想に合わせなくてもよいはずです。改革の必要無いものを歪曲してはなりません。了見が狭過ぎます。これを信念とは言いません。上から目線で済みません。白状すると、実は己も大した事は無いんです。徒然に日々を暮らすだけで精一杯です。
退会者の論理の転倒は明らかです。誤りを認めて戻られてもよいと思うものの、仔細は解らないので、まず御当人と、次に、よしりん企画の判断に御任せします。まい、そのままかな。