知を探求する学問には覚悟が要ると思います。探求して知を開拓すると、例えば安全保障問題で言えば核防衛に突き当たります。左ヨタろーが、これを否定しても、日本はメリケンの膝にすがりついて核のおしゃぶりをくわえています。これに怯えて棚上げしたままで学者とは言えません。
倉橋耕平 クン は、学歴権威主義の偏差値優等生なので、権威に従うだけの
純粋まっすぐ君だから、知への探究心が無く、知を開拓しようともせず、問題にぶつかっても覚悟が無く、他の権威様の論文に逃げるんだろうな。
臆病なのね。学問には勇気が必要と思います。
探求者、開拓者には勇気の要ります。
同じく芸術にも覚悟が必要と思います。
金持ちの貧乏人の真似が茶道と聞いた事が有ります。実際に茶碗だけでも何万〜何十万〜何百万円もします。それらを昔の生活様式一式以上要るなんて驚きます。茶室も道具の一つになりますからね。
しかし一見、貧相なものの中に侘び寂びという美を見付けてしまいました。そりゃ一国と道具一つを交換してでも茶道をする人は出て来ます。全部、色々と種変え品変え道具を揃えて出来ればいいよね茶道。
ただ、分け隔て無く茶を飲むだけでも茶道は成立するのでしょうけれども、格式を成立させないといけないので、道具に流れる危険性を自動的に持っているのでは無いかと思います。
こう書くのは、外の抹茶で一服して、もっと安く飲めるだろうと調べたらタマげぇったんですよね。ありゃ秀吉だけじゃなく、利休自身も茶道という芸術に自動的に矛盾を抱えておったのかも知れません。
芸術について、よくわかりませんけれども、人間の正の部分に芸術の枝葉が分かれているなら、人間の負の部分にも芸術の枝葉が分かれていると覚悟していないと駄めぇですね。
それは人間の禁忌にグイグイ触れてくる芸術を否定する事は出来ないし、してはならないと思います。
「ぬか床の底に忘れられた漬物のような存在になった人物もい」ると思います。
家畜もね、お魚なんかだって、食のテーマパークなんて、人間には素晴らしくても、畜生には、これほど むごたらしいものは無いんでっせ。
認めなければならないものは認めなければならないでしょうね。まい、グロいものを見て、その場で対立想念に絡まれて楽しむ趣味は無いでので、芸術に対しては、よくわきまえる態度は持っていようと思います。