南青山D.J の削除コメント

配信ありがとうございます。
「表現の不自由展」に関しては完全に津田氏の策略でしょうね。
どう考えても騒ぎを起こさせ、中止されるところまで彼の計算づくだったのではないかと思います。
今回の件や今までにも取り上げた抗議圧力の話、
抗議したりする人達の特徴は「不快に感じた」などと
殊にそれによって『被害を受けた』ことを強調します。

以前こういう例として「いじめの定義」が根本にあるのでは?と書きました。
何しろ日本国民のほとんどが子どものころから言われ続けた定義です。
これらを当てはめれば理解しやすいと思います。

『被害を受けたと感じたらいじめという犯罪が成立する』
(これらに関してはQ&Aでよしりん先生に「危険」とご回答をいただきました。)
『被害者が100%正しい、加害者が100%悪い、何もしなかった傍観者も加害者と同罪の犯罪者である』
『すなわちいじめられた人間が異常者や基地外になって事件起こしたらいじめ加害者の責任である』と。
そして本来なら犯罪者であるいじめ加害者は「逮捕され、刑に服されなければなければならない」と。

殊に昨今は注意されたり、主張や意見を否定されたり、間違いを指摘されたりすると
『いじめられた』『侮辱された』と受け取り「本人のみが通じる」復讐をする人が増えたように思えます。

話をもどすなら、彼らが過剰抗議や恫喝、脅迫やテロに至っているのは
「被害を受けた自分は100%正しい被害者で、被害を与えた相手は100%悪い犯罪者」となるため
絶対撤回しません。いやむしろ撤回することは
「いじめた加害者に無理やり従わされた、屈した」ということになるわけで、
脅迫や恫喝、襲撃事件をおこしても
「自分にそういう行動をとらせたいじめ加害者が悪い」ということになり
それどころか自分の正義に酔っぱらった「殉教者」のような気分なのではないでしょうか?
なにしろ「被害を受けたと感じたら100%正しくなる」というのは「いじめの定義」が保証しているのですから。
だから彼らにとっては「自分をいじめた、傷つけた」存在が亡くなるまでは戦いを続けるのでしょう。

それが中止だったり、廃刊だったり、殺害などのテロ行為をして反論を封じ続けるのです。
「基地外は自分の行動によって嫌われ、孤立しても全部周りのせいにして、結果被害妄想を募らせ狂暴化していく」
とよしりん先生も書いています。
また、「いじめられた人は正しいのだからそのままでいい」としたいじめの定義だけでなく、
東大入学式で上野氏が「フェミニズムは弱者は弱者のままでいいとする論理」といったように
『いつまでも弱者のまま努力もなにもしないでよい』とした論理が複数成立してしまったので
いじめの定義を幼少期から叩き込まれてきた人が日本人のかなりに浸透してしまったからこそ、
誰でも「自分が被害を受けた」と感じたらそうなってしまう可能性があるのではないかと書いておきます。
なにしろ「人は信じたいものしか信じないで、客観的に見れなければどこまでも先鋭、過激化していく」のですから。

タイムシフト拝見いたしました。SPAの戦争論も加えて、
「一体学校や塾で何学んできたんだか…」て思っちゃいますよね。
そういうのを扱ったドラマや小説だって山ほどあるだろうに。
ふと思ったんですが、この回で話した立憲主義とSPAに掲載された戦争の話
入試に義務付けるべきでない?国会議員サマでさえそんなんですから。

日時
2019-08-30 07:10
投稿者
南青山D.J
記事
「抗議・恫喝・脅迫が表現の自由を委縮させる」小林よしのりライジング Vol.327
No.
49