T.K (ティーケー)様。
様付けは有難いですけれど、自分は、これに相応しい者では無いので、次からは、さんくらいにしておいてください。贅沢な お願いで 申しわけありません。返事が遅くなり済みません。
「仔やぎを必要悪に捧げたく無いものです。」
「私たちの子供を戦場に送るな。」
>差異が分かれば、保守とリベラルを分ける分岐のようなものが見えてくるような気がするのです。
との事ですが
この欄では、すでに判っていらっしゃる方が多いと思います。T.K (ティーケー) 様も、ゴー宣、ライジング論考二本、毎日ブログ、コメント欄、他を御覧になっているのですから、本当は判ってらっしゃると思います。
自分もそうだと思いたいです。だから、ここでは独自意見で無く、他での所を含めて、こちらで習った事を書きます。自分なりの整理の長駄文です。分かりきった事で済みません。細かい言及はよして単純に書きます。御指摘を御受けします。
まーさんが、
T.K (ティーケー) 様に向けて一番簡潔に答えを書いておられます。「公」と「私」の違いです。人間と事象は時間と空間(時所位)で変わります。その通りと思います。
人は「私」であれば
「仔やぎを必要悪に捧げたく無いものです。」
「私たちの子供を戦場に送るな。」
何ら問題は無いと思います。自然な人情です。
しかし人間は、全ての人と判り合えなくても、集団生活の社会を形成して恩恵を受けている以上、「私」の思いを捨てて「個」として「公」(社会)と一体化しないとならなくなります。これは道義で有り、「私」「個」「公」の生存、実存価値の為で有ると思います。自分が死ねば何も分からなくなりますけれども、自己の命と他己の命との同化です。後の細かい事は省きます。
テロリストの皆さんや、侵略などに際して「公」の存亡に関わる時、必要悪に捧げたく無くても、子供を戦場に送りたく無くても、自分を含めて、家族で有ろうと無かろうと労力、生命、操を捧げたり、送り出さなければなりません。そうでなくては皆殺しされるしかなくなります。
場合によっては、銃を握った事が無くても行かせるしかないです。戦いに必要なら、女、子どもさえ戦わせるしか無いです。死んでも、五体不満足になろうと仕方無いです。
これは辛いです。覚悟しても覚悟不可能を覚悟しなければなりません。つまり、死を常に覚悟するしか無いです。これは厳しいです。この世は、どん底の苦しみと一体です。「公」の非常時で無くても、すでに、これを経験している人はいます。
徴兵制が必要なら、徴兵に行かなければなりません。また、その訓練の途中で、精神を病んだ者に、銃撃訓練時に撃ち殺されても仕方無い気持ちで行くしか無いです。偶発事態で、仮想敵国に殺されるかも知れないし、徴兵勤務中に、普段では有り得ない事故に有って、死んだり、生きる屍になっても仕方無いです。どんなに注意しても防ぐ事は不可能な場合が有ります。
時間と空間(時所位)において、必要な時「公」に殉じれと「公」と「個」が命じれば、これに従う人間の態度を真正保守と先生は言っているのだと思います。人に理念が有る以上、生命より大事な価値を見出し得ざる負えません。
時間と空間において、「公」と「個」に従うなら、考え方も伝統に則って、人間の在り方、社会の在り方を時間と空間(時所位)に応じて変えて行くのも保守の特徴です。考えが変わるのを受け入れる器が人に必要です。
何と言っても、死を覚悟し、命を張るのですから、論理は、個人的に社会的に完璧に整えておかなければ絶対にいけません。
つまり、真正保守に必要なのは、絶え間ない調査、考察、検証、論証、実証です。
しかし、似非保守や似非リベラルは、論理の矛盾も何もかも放棄したままで済まします。理念は、保守にもリベラルにも有ります。しかし、一度定めた理念を金科玉条のように守って、調査、考察、検証、論証、実証をしません。時間と空間(時所位)に応じて思考出来ないのです。人として頭脳を活用していません。
だから先生は、右にも左にも、御自分の支持者にも時所位に考えて水をぶっかけます。本当は、真正保守に従って柔軟な思考ならば、先生の話は筋が通っているので、一時的、受け入れられなくても、そのまま教授を受けておれば、敵視して嫌いになったり、離れて行ったり、悪口を言う必要は無いと思うのですけれども、自分の考えを省察出来無い頑迷な人が多いんだなとしか思えません。
時所位に応じて、調査、考察、検証、論証、実証を絶えず行うのは、人間の在り方として真実と思います。人間は、昔話の昔から変わっていません。人は、はっきり言って、これしか無いです。
それには、余計なものは考えに入れないと良いと思います。人が人として人に関係したものが文化なら、どんな無学でも、誰でも理解出来るはずです。この際は、先入観念が全く無い方が真実に素直に辿り着きやすいと思っています。無学が、足りない専門家に勝つ道理です。学より、先生が常識を勧める由縁です。先生は、人に対して、社会に対して、ここに賭けているのだと思います。
真実に辿り着くには、絶え間ない時所位に応じた、調査、考察、検証、論証、実証です。これが人間の在り方、社会の在り方の真実なら、保守とかリベラルとかの区分は必要無いと思っています。意味が無いからです。先生が真正保守を名乗っているのは、歴史上の保守に近い考えからで有り、御自分の立場を鮮明にされるが為と思います。先生は、真正保守の名乗りにこだわっているように感じません。
人間は、ひたすら時所位に応じた、調査、考察、検証、論証、実証し続けるしか有りません。
但し、これらには精確な情報が必要です。視聴率、販売部数に色を為した報道、権力者に捻じ曲げられ、隠蔽される情報、これほど酷いものは有りません。端緒が間違っていれば結論も認識も違ってしまいます。うっかりすると、これに流されます。先生でさえ、森発言の全文を読まれて認識を修正されたくらいです。
それに浮世の苦労に疲れている人々は、私も含めて、絶えず注意をしているわけでは有りません。私も偉そうな事を書きながら、ここでも他でも、色々とやらかしています。考えも無く、己の情に流されています。しかし、ゴー宣道場は、重要な事を視聴覚で補ってくれますので有り難い存在です。
細かい事は横に置いといて長々書きました。こんなに書いたのは迷惑だけで不必要だったのではないかと反省します。
T.K (ティーケー)様に
まとめて置きます。
明確に違う所、或いは根本的に違う所、その差異が有るとしたら
絶え間ない時所位に応じた、調査、考察、検証、論証、実証で真実に辿り着けるか、どうか。そして、真実に辿り着いたら、意に沿わずとも、これを受け入れて、考えをただす勇気が有るかです。
理念(主義主張イデオロギー原理主義)だけに、こびり付いて、ただ、一面性だけを強調して張り合う独りよがりの相手にする必要は有りません。真実で叩き潰せばいいだけです。しかし、簡単に叩き潰せない所が口惜しいです。
済みません。機械の不具合で削除を何回か繰り返しました。