丑三 やギ の削除コメント


>>198
こちらこそ、お足元、ひれ伏します。

>>192 では
「不快な思いをしたと書いていない」と在ったので、自分に当てられたコメントと思っていました。ただ、そんなに厳密な意識なく、不快な思いをさせてしまったかと思ったので、ただ、そう謝罪しただけの事です。

また「曖昧さを許さぬ議論」には、議論が必要になるので謝罪文には省かせてもらいました。謝罪文に理屈は余計と思いました。そんなに深く考えないでください。コメントの返信は「弁えれば」いじめになるはず有りません。罵詈雑言なんて浴びせませんよ。

今回のライジングは、「小室圭バッシングは愚民大衆の差別である」でしょう?この残酷ないじめに、コロナデマの惨状を見て苛立ってはいけないと思っていても、相当、鬱憤が溜まっていたようです。言い回しの違いで、人様を公衆の面前でブン殴って、殴り返されるのが普通だと思ったら、他から叱られ諭されたんだなと思います。因みに、この殴ったと言うのは、意見を書いただけで、いじめの意味は有りません。名誉毀損の思いをさせて済みませんでした。これも、あんまり深く考え過ぎないでくださいね。

ここで、T.K さんに答えて、曖昧さを許さぬ議論について、己の考えを略して記します。どうしても当たり前の内容になってしまいます。

議論は、ぶん殴り合いに例えられますが、暴言はいけないでしょう。議論は道理を質して止揚させて道理に落ち着かせる事だと考えます。これだけに尽きます。

ですから、議会では厳しく互いに相手の曖昧さを突いて道理を説かなければならないので、殴り合いに例えられるのだと思います。

しかし道理を質しても、相手は、これに組み合わず、道理を辿る頭脳に欠け、道理を明確にする道義がなければなりません。
(何が道理か、道義かは、ここでは定義は省きます。常識的範囲で御理解してください。)

これに関わらず、今の世は、この道義が人に無いのです。市井の大半がそうです。議会では、はい意見は承りました、はい多数決を取りますで終わります。道理が整わない中の強行採決なんぞ、その際たるものです。また同じく、その際たるものとして、法の条文に書いていない部分を隙間として脱法する行為も横行しています。みな解釈次第で、非常に惨憺たるものです。

市井だけでなく、精神労働の議会にも、司法にも旧来以前の考えに固執して、道理が通る世の中になっていません。先生の正論が在っても、人の頭蓋の中に届かなければ、全く意味は無いのです。

道理は時空によって違って来ますが、曖昧さを許さぬ議論とは、道理を突き詰める事です。それには道理にかなおうとする道義がなければなりません。そして、これには道義に従い生きる価値有る人がいなければなりません。言い換えれば、現実を弁えて理想を徹底的に追うのが、曖昧さを許さぬ議論です。

社会全体が、こうであればよいのです。しかし、それは無理でしょう。政治屋、司法屋さえ、道理も道義もかなぐり捨てて、己の利権や感情に流されている者ばかりです。人は、みんな違ってよいものの、違ってよくないものが確実に有ります。それが、道理であり道義です。両者のうち、ひとつを選べば道義です。道義が無ければ、道理は無く、曖昧さを許さぬ議論は存在し得ません。

ならば、この道義を如何に興隆させるか?それは憲法を充実させるしかないです。法律は最低限な道義を守らせる為の型枠と言われています。その通りです。その頂点が憲法であって、憲法だけは絶対に守らせなければなりません。

ところが、政治屋は憲法を守らず、司法屋も憲法 第五十三条に基づく臨時国会召集にアベが応じなかった違憲性を問われても、東京では、違憲の審査もしていません。それだったら、告訴状を受理しなければいいのに、道理に合わないから、受理したのでしょう。これは司法屋が、道理を知っていながら、道義がないので、道理を破棄した例です。

曖昧さの許さぬ議論は、充実した改憲が第一です。その上で、道義に恥じないようにする教育しか有りません。偏差値点数に重点をおいた教育では無意味です。但し、道義心を養うについては難しいので別論にするしかないです。

以上の為には、道義の志し有る者同士で、道理を高め合うしか有りません。

ただ、コメント欄では意見を表明するだけで、曖昧さを許さぬ議論は成立しないかと思います。意見を出しても、相手が拒めば、そこで即、終了です。細かい意見の差の調整も出来ません。己みたいに鬱憤晴らしのコメントをするのもいれば、関心ごとによって、入るコメントも統一出来ません。何事も完全は求められません。

身近に曖昧さを許さぬ議論を指すなら、道義心有る人の道理を見聞きして、道理道義を興して、これを社会に反映可能な人物に迫るしか有りません。曖昧さを「許す」議論を許さないようにするのが現実の選択と思います。

面と向かって議論しても、聞く耳持つ、振り返る胆力が必要です。しかし、相手が徹底的に拒めば、そこで終わりです。交渉決裂も認めなければ、殴り合いになるかも知れません。かくして、終戦から七十六年、米国の正義に寄り掛からなくてはならなくなります。ぶっ倒した方が道理となります。歪です。

これを避けるには今上天皇皇后両陛下、太上天皇皇后両陛下に習うしか有りません。『ここに到って』やはり、御菊の家紋は有り難いです。己は畜生道に落ちていますけれど、下賤な政治屋、司法屋に頭を下げずに済みます。

陛下は、現状憲法を象徴するのでは無く、それ以上の憲法の理想、道義、道理を体現せられておられる御方です。普通の者なら、法律は読めます。議論も出来ます。しかし、条文や文章、言葉に表せず、形に絶対出来ない御方が、今上天皇皇后両陛下、太上天皇皇后両陛下の大御心です。いやぁこれは有り難い。柏手合掌。

皇室存続と改憲は、必ず、ひとつです。陛下の大御心にかなう憲法でなければなりません。そこに、曖昧を許さぬ議論を重ねる必要が有ります。

日時
2021-04-25 20:56
投稿者
丑三 やギ
記事
「小室圭バッシングは愚民大衆の差別である」小林よしのりライジング Vol.395
No.
201