今週も配信お疲れ様でした。そして今年最後の「ゴー宣道場」お疲れ様でした。
倉持師範の基調講演、日本・日本人がいかにダメダメかということを、改めて再認識しましたが、ドウリデヨノナカ…(´・・`)イマイチナワケダ……?
その中の、「自分は“中”という人が最も多い」というのは、
昔読んだ心理学の本に、面白いことがありまして・・・
実際、大抵の人は「中」とかと答えるものなのですが、
なら、その人がいると思っているであろう「中のライン」はどこに引かれているか?
その「中」と答えた人が思う「上」の学校なり会社なり行って、そこで同じく「自分は上中下のどの位置にいる?」と尋ねたら、
やっぱりそこの大抵の人は「中」と答えるでしょう。
で、さらに「上」のところで同じ質問をすれば、やっぱりそこでも大抵の人が「中」と。
そうしていつかは、自分は「上」と答える人が多数のところにいくかもですが、
となると、最初のところで「中」と答えた多くの人は、実際には中よりはるか下、平均ラインにも全然届かない人々ということになってしまうと。
つまり、多くの人は「中=平均的」と錯覚しているけれど、実際には自分を「中」と思うということは、自分は平凡以下だと認めているようなものだと。
そうやって、社会は頽廃・衰退していくものと。
日本人が如何に「自己認識・自己イメージ」が低いというのがよく分かる……。
戦後76年間、主体性のない属国民として、また長らく自虐史観の中で生きてきて、デフレからもいつまでも脱却できず、しかもさんざん見下していた中国に追い抜かれ、韓国にも迫られている今の日本、
最後の心の拠り所は、皇室の純粋で汚れのなさ?Mahler:Symphony No.2…(∵;)2nd movement?
しかし、自己イメージが低い人は、人のために貢献すれば世の中に認められ、それが自信となって健全に自己肯定できるようになっていくということを知らない。
そして、歪な承認欲求ばかりが育って、「我こそ総て」となって、他者に対して「人間を見る」ということができない。
やんごとなき皇室に住まわれているのは、同じ「生身の人間」であることすらわからないほどに……。
そして、眞子さんや秋篠宮さまにまで逆ギレするような、今の皇室と大衆の悲劇があると。ヒトヲユビサセバ…ゞ(`´)ユビサンホンハ ジブンニムイテイルンダゼ!
それと、もう一つ思い出しましたのは、かつて「週刊スピリッツ」に連載されていた『オメガトライブ』という作品。アレモタシカ…(ΦωΦ)ウイルスノハナシダッタカト
その中で、「ホモサピエンスは、他者を切り離し、個でも生きられるように進化してきた。そしてついにここまできた」と。
そして「最後に澱として残ったのが親子の繋がりだ」と。
しかし、実際に澱として残ったものは、「権威主義」「世間」だったと。ケッキョク…(´゜щ°`;)ミンナ ヨリフアンニナッタト…
「人は個で生きられるように…」といっても、ただ世の中が便利になっただけで、人そのものが進化したわけでも、「強い個人」になったわけでもない。
実際にはむしろ、より脆弱な個人、社会どころかスマホから切り離されたらもう生きていけないほどに、畜群と成り果てたと……。シン・ダラクロン…(`ω´)9ワスレルコトハナイ…!
そして、現代っ子が手離せないそのスマホを介して、コロナ君は今日も元気にピョンピョンと、人から人へ巧みに渡り歩いていくという、この皮肉……。コロナクン ナニシトンノ~?ꉂꉂ(ᵔဗᵔ*)イロイロヤットンノ~?
その『オメガトライブ』には、こんな話もありました。
そもそも生物の生の目的は「種の保存」であるが、「種の限界」となると、強烈な自己への固執、若さへの執着となり、
ついには「種の本能の逆行」-自分が生き延びるために、親が子を殺すようになる、と。
あの忽那医師の「利他的意義」、それに危険なワクチンを子どもにまで打たせようという今の世界的ムーブメントは、まさに「種の限界」なのか!と。
そして、今回よしりん先生が凄まじく批判している玉川徹氏は、まさにその「劣化した人類の象徴的存在」かと。マスクマンヲミタラ…((`Ψ´))σタマガワトオモエ…ミタイナ?
でも、皇室についてだけは、わりとまともなことを言っているのが・・・?
「人間は生きているだけで堕落する」
この「大劣化現象」というのは、自然の成り行き、人類の宿命…
ということで、ウイルス同様にそれを受け入れ、諦めるべき?
否、たとえ人間は進歩しないにしても、何度でも同じ過ちを繰り返すにしても、
たとえウイルス・自然現象には勝てなくとも、ヒトの劣化にはとことん抗い、未来への希望を掴もうと前進することこそ、「人間的行為」と言えるのではないか?と。ブタハイッショウ…ሣ( ᢲ )ሥウエヲムクコトガデキナインダゼ……
個の弱さに反比例して、世間は強化されたと。
個が脆弱になればなるほど、利己的な快楽を追求する生になればなるほど、世間をより意識し、権威を妄信してしまうようになったと。
しかし、その世間・権威主義は、皇室やコロナやワクチンにおいては、「常識」や「公心」を踏みにじるモンスターだったと。
なら、「常識の逆襲」のために、狂った公を取り戻すために、この世間というものにどう対抗していくか?
「公論」によって問答無用の「世論」を、思考停止の「権威主義」を突破するべし!と。
「論理は勝つ」のだから!
ただそれで、今週と先週の「SPA!」『ゴー宣』、井上先生と楊井先生の議論を思い返しますなら、
実際に、「俺がワクチン打とうが打つまいが、そんなのは個人の自由だろうが!他人にとやかくいわれる筋合いはねえ!」という人もいる。
「ああそうかい!勝手にしやがれ!どうなっても俺は知らんからな!」と、突き放すわけにももういかない!
ワクチンの犠牲者があまりにも多過ぎる!
「打つ自由と打たない自由」なんて言っていたら、邪悪な製薬会社の凶悪なワクチンから、凶暴なワクチンファシズムの魔の手から、子どもたちを守れない!!
「打つ自由と打たない自由、それぞれ尊重されるべき」
そんなのは『コロナ論4』第16章のワタミとタマホームの話を読めば、どちらの自由にせよ、現実の世界ではただの純粋まっすぐ正義でしかないと思います。
ワクチンを打ってこれだけ悲惨な目に遭っている人が実際に出ているのにも拘わらず、
皆が打て打てと言ったワクチンを打って、それでどんな目に遭おうと、本人のみならず愛する人がどんな目に遭おうと、
それは「個人の選択の自由」だったのだから「自己責任」、ということで泣き寝入りするしかない??
あまりに酷い話ではないか!?と。
リベラリズムが、自由の精神が、薄っぺらい公正・公平・平等が、公共の福祉のための自己犠牲の精神が、
権力・製薬会社を利し、巨悪の、大量殺人の片棒を担いでしまう。
製薬会社は、このワクチンは自然に獲得した免疫にはるかに劣るし、ヤバいものだと分かっているにもかかわらず、責任をとる気は一切ない!
それなのに、ワクチンで亡くなった人に対しても、「打たない自由もあったのに…」などと、リベラルはそう言うだけなのか?それがリベラルなのか?
「オドレら正気か?新春LIVE」、井上先生と萬田先生の絡み、そこに倉田先生中川先生そして倉持先生がまたどう絡んでいくのか?というのも興味津々ですが、ヤナイノシカバネッテ…(´°щ゜`)マサカ…ワクチンウタナイヨネ?
果たして「最も上質なワクチン擁護」の楊井先生を突破できるか?
果たしてこの「公論」最大の関門を如何に突破し、「公論」を進化させ、そして子どもたちへのワクチンお注射を止められる活路を開けるのか!?ワクチンノセタクルマハ ドッカイケ!ゞ(`"皿°)9ココハチュウシャキンシダゾ!