15日、朝日新聞の「耕論」社会学者の山本昭宏 氏の話を好い加減にしたので少し。
継ぎ足し書きで、文を上手く直す時間がないので、このまま失礼します。
この人の主張。
ウクライナ戦争から、戦うべきか否かの表題について、戦争経験者が減り、実感に基づいて生理的な感覚で戦争を語る人が少なくなった。戦争すべきではないと言ったら、平和ボケ、お花畑で片付けられてしまうようになった。そして(戦争を体験した作家の言葉を挙げて)反戦でなく、もっと利己的な「厭戦」だ、国ごと滅亡しても、皆殺しになっても、兎にも角にも戦争は嫌だと公けに言い出しにくくなった。もっと生理的な個人の感覚で「国家の戦争で市民が詩ぬのはおかしい」との根本を新ためて考える機会にすべきだと言ってます。
また、この人は、はし下のウクライナ徹底抗戦の批判も、国より個人が大事の新自由主義的な言葉でしかない(生理的な個人の感覚では無い)と言っています。
もっと、ウクライナ危機について意見が分かれてもよいと言います。
しかし結局、山もっさんの言いたい事は、ウクライナ戦争を生命至上主義で語ろうと言う事と同じです。戦争は嫌だ、恐ろしい。
国を守る為に命をかけて戦うと豪語しても、実際に銃弾の飛び交う戦場に出たら、やはり恐い。飢える。食事も時間通り喰えない、風呂に入れない、着替えも出来ない、気分晴らしの娯楽もない、戦場に出なくても後方ではインフラ崩壊、物資不足、水粥すすって生きられない、家族、親族、知人が詩ぬのは嫌だ。
これは分かる人ならば、ウクライナの惨状を見れば分かる事ばかりです。ちょいと検索したら、赤児を抱えた若い母親が、爆発の破片かなんかで胴が断たれて中身が半分飛び出し、目を開けている写真など簡単に見れます。大東亜の語り部を受け継いだ話も聞けます。それに元々、時間経過で戦争体験に裏付けられた生理的な声が減るのは仕方なしです。
戦争を厭戦、反戦だけで考えると皆、行き着く先は生命至上主義です。これは素直で当たり前な考えだと確かに思います。
しかし戦争論は、戦争を価値観をもって見る事を説きました。価値観なく、その場の人情に流されるだけなら誰でも出来ます。そうでなくても変な右ヨタロー、変な左ヨタろーで分断されているのに、ウクライナの現実の戦争を見て、もっと国民が、その場の人情に流されて生命至上主義に意見が分かれてもよいとするのは、どうしたいのか?
はし下と同じ事を言うしかないじゃないか。
社会学者が、何故、社会の出来事に価値観を付与して語れないのか、よく分かりません。
つまり、山もっさんは、生命至上主義よ巻き起これの結論しか言えてません。戦争論が越えた価値観から後退しているだけです。国際的視野に立っての戦争の影響を価値観によって論じていません。それより、戦争論に反発している左ヨタろーだけなのかも知れません。読んでも意味の無い文章(語り)でした。
駄足
耕論の横の社説はコロナでした。コロナ脳なのか、従軍慰安婦の時のように間違いを認めて謝罪したくないのか。昨日、社説一覧を検索したら過去の社説から主張は変わっていません。ゆうネット意見広告は掲載したく無いのではないかな。しかし、今朝の朝日新聞一面3分の1半分に、コロナ論5と全巻の広告が載っていました。無理に原稿を修正させた、よしりん先生への謝罪かどうか。それでも、帯の文面が載っただけでも良かったです。