丑三 やギ の削除コメント


安倍晋三の暗殺結果を因果応報と言うについて、批判や反省が見られます。ここで己の整理を申します。

幸福に科学とは似ても似つかないと思っています。幸福は主観、哲学、思想で語らなければならないものであり、科学は客観で語らなければならないからです。幸福を科学だとする見解は違和感があって、どうしようもありません。

しかし、因果応報は仏教語です。主観の範囲が原義です。これは、原因があれば相応の結果があると言う客観の科学の因果律を含んでいます。

人間も自然界の客観に生きているのですから、善き行為には善き結果を導け、悪しき行為には悪しき結果を招き寄せます。政治や社会の成り行きをを考えるなら、こうした善悪の行為の結果を信じ無ければ、社会の為に何かしようと言う志しは全く無に帰します。主観的にも因果応報の道理は認めなければなりません。

但し、先に申した通り、因果応報は自然科学の法則のように必ず、原因に応じた結果を正しく導けません。これは自然科学と社会科学の違いと同じです。自然科学の原因と結果には必ず定理があります。しかし、社会科学は原因と結果に必ずしも定理とする事が出来ない所があります。幸福を科学だとする考えに違和感を持つのは、幸福を自然科学とする見解を示している印象があるからです。

ですから、幸福を科学とするなら、不確定要素を含みながら、善き結果に導こうとする社会的科学としての範囲なら因果応報を認めなければなりません。善き行為の結果、悪しき行為の結果を確信しなければ、人間の行動を規程する事は出来ません。

以上の事から考えると、安倍晋三の銃撃の顛末を因果応報と言うのは、犯人に対して言える事でしかありません。犯人に安倍晋三の政治行為に不満が無かったようですから、安倍晋三が暗殺された事は、アベの因果応報たり得ません。

ただ、安倍晋三が政界において為した事は、あまりにも酷いので、因果応報の宗教的原義によって、安倍晋三への処罰感情が現れたものと言えます。

従って、処罰感情において、安倍晋三が殺された事を因果応報と言うのは理解出来ます。安倍晋三への処罰感情を抜きにして、因果応報と言うのは信じられないは、善き行為を政治、社会に求めるている立場なら自己矛盾があります。

但し、銃撃による凶行は、人間的にも社会的にも許されるべきではありません。ここにおいて、安倍晋三の非業の最後を因果応報と言うのは違和感が出て来ます。安倍晋三の社会への悪行は、法によって裁かれるべきだからです。

けれども、安倍晋三は権力を悪用して、自分の悪行を裁かれないように工作していました。己は、この点において、安倍の最後を因果応報と言う処罰感情で言われる事に正当性は認められないものの、その動機を否定出来ないです。

処罰感情と、安倍晋三が裁かれるべきだった在り方の違いを心得ていればよいと思います。

日時
2022-07-09 12:54
投稿者
丑三 やギ
記事
「ロシアと戦前の日本が同じだと?」小林よしのりライジング Vol.440
No.
181