これが分かりづらかったので整理して再投稿をします。
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安倍晋三の暗殺結果を因果応報と言うについて、批判や反省が見られます。ここで己の整理を申します。
因果応報と言うのは、原因(因)に応じた結果(果)が生じ、それに応じて報い(報)が有る事です。つまり、自然の中を生きる人間の行為の善悪によって相応した結果が生じ、それに応じた報いが有ると言う事です。
これは科学的と見られますが、自然科学の絶対法則のように原因と結果が定理のように決まっているのでは有りません。社会科学のように、原因と結果に不確定要素を含む因果律です。
それでも人間は、政治などで社会正義を目指すなら、善き行為には善き結果を、悪しき行為には悪しき結果を招く因果応報を信じなくては、人間の志しは全て無に帰します。不確定要素が有っても、人は因果応報を求めなければなりません。
安倍晋三の銃撃の顛末を因果応報と言うのは、本来の因果応報とは違います。因果応報は本来、仏教的な宗教的原義です。これから、安倍晋三が政界において為した事は、余りにも酷いので、安倍晋三への処罰感情が、因果応報と言う語で現れたものと言えます。
安倍晋三に対する処罰感情が無いと言うのは不自然です。
但し、銃撃による凶行は、人間的にも社会的にも許されるべきではありません。安倍晋三の社会への悪行は、法によって裁かれるべきです。しかし、安倍晋三は非業の最期を遂げました。
これを因果応報と安易に片付け、つまり、ざまあみろで済ますのは、人間性的にどうかと思われます。
けれども、安倍晋三は権力を悪用して、自分の悪行を裁かれないように工作していました。己は、この点において、安倍の最後を因果応報と言う処罰感情で言われる事に正当性は認められないものの、その動機を否定出来ません。
安倍晋三の非業の最後を因果応報と言うのも、これに反発するのも、どちらにも理が有ります。
要は、処罰感情と、安倍晋三が裁かれるべきだった在り方の違いを心得ていればよいと思います。