つづきです…。
「光る君へ」で、まひろさんが一条天皇や中宮定子に、「宋の国には科挙という制度があり、誰でも官僚になれるから素晴らしい」と申し述べておりましたが、科挙は儒教の経典の丸暗記なので、孔孟思想だけに頭が固定されてしまう弊害、たとえていうなら「人権」思想が正しいという価値判断にもなりうるし、皇帝との面接があったりするので、皇帝の意思に忠実な家臣をうみだす一方で、批判精神をなくす可能性もあるし、人見知りな人は大変なのでしょう。
自動車の教習所でならったことや、大学受験勉強とかで詰め込んだ知識みたいに、あとで忘れ去るということにも成りかねない。
近年の入試にも、推薦だけではなく、AO入試とかもあったりしますが、多種多様な試験が要るのでしょう。それはその時に応じて、工夫してゆくべきでは、とか思います。適所適材ができる人が…多分、「名君」とか言われる人なのでしょう。
よしりん先生の方ですが、かつて呉智英さんが「朝日新聞と産経新聞は似ている」とか申されていたことを思い出しました。大須賀さんのブログなどとも連携しますが、「文春と朝日」も似ているのでしょう。
つまり、その時代の趨勢とか常識とか(一般に)言われる、あるいは思い込まされているものと離れて、言論や思想は生み出せない。現代は「人権」がそれこそ「孔孟思想」のように思われているわけで、そこから乖離した意見を持ち出すのがいかに困難か、それでいて、主張をする人は「デュー・デリジェンス(Due diligence)」のような新しい言葉に敏感だったりする。自分をことさらに特徴づけようとする「悪しき目立とう根性」なのでしょうか(人のことは言えないのかな)。
私は言わせておけばいい、という感じで、あまり関心もないですが、「キャンセル・カルチャー」という言葉自体を知らないと、自分がどんな環境に、境遇の中にいるのか理解できなかったりするので、それでも(周囲の情況、たとえば私的な場合か、仕事場などの公的なものか、休み時間かといった問題はあるのでしょうが)さりげなく言えるようにはしたい、とは思います(なかなか機会はないですし、無視する人や分からず屋もいたりしますが)。
とは言え、「意見の押しつけ」みたいにならぬようには注意したいです…って、当たり前ですね。
以上、まただらだらと記してみました。