mayuさん こいらさん na85さん カレー千兵衛さん
na85さん、前回のライジングコメント欄でおすすめしてくれた陽明学の入門書、二つとも購入しました。機会を伺っていは読んでみます。
mayuさん 私も同じ店で買いました。冒頭に積み上げられていることから期待の書籍であることが一発でわかりました。はやく、感想はがきを書いて出したいです。
実は、前回と今回のライジングコメント欄で冒頭に述べた四人方が里山および、共同体について述べていましたが、我が國の歴史から成る共同体とその成り立ち、そして現代における共同体の実情とそのあり方を徹底的に、かつ解りやすく解明し重要な書籍があります。
それは 内山節 著 農文協出版「共同体の基礎理論」という書籍です。本書は庶民から見た共同体のみならず、我が國の庶民における価値観を徹底的に解析した書籍で本書と「天皇論シリーズ」「大東亜論」、そして高森師範の高森ウィンドウズの「ウソのような本当の話『犬の伊勢参り』」または、「逝きし世の面影」を読み足せば、我が國の國体を全て説明できてしまうのではという感想を抱きました。そして、本書は今回のライジングにも関係する重要な事実を突きつけていて、本書は我が國における臣民一人一人に需要な答えを隠しているのではという感想も抱きました。
今回のライジングでは日本人は一神教の文化(欧米人も含む)と比べて個が弱いと書かれていましたが、実は日本人と一神教では個の確立が全く違うことが書かれています。
まず、本書では欧米人は人間である他社に対して自己を示す形で個を示す(他人に対してあなたと違うとする)のに対し、多神教で森羅万象に神が宿る日本では自己を極めることが個の確立であるというのです。この自己を極める個は古代の作品である「源氏物語」や「枕荘子」「日本霊異記」などでも自我を奥深く追求していることや現在の漫画やアニメでも絵柄などの作品は勿論、物語でも自我を追及している場面が物凄く多く重点を置いていることからも解ると思います。これは日本は一神教と違い、森羅盤上に神が宿るという自然とともに共存する概念があることから、自然と向き合い、自分自信を追及し、掘り下げていくことによって個が成立していくというものです。
よって、漫画を描き続けることで漫画という美術で己の感性と技を磨いてきた小林師範も個が成立しているのであり、鍼灸師などの人間そのものという自然の力に治癒の可能性を見出す東洋医学も自然と向き合い、知識と業を極めて自己を掘り下げ、個を設立していくのだと本書を読んで思いました。
また、明治に至るまでは仏教も神道も分裂されておらず、神社も寺も役割ほぼ同じでした。そして、村では自然と向き合うことで人間がどうしても私情を抑えきれずに自然を冒涜しているという悲しみに耐えられず、山に入り、空海のごとく滝に打たれ、岩穴に籠っては座禅し、食物も行く先々で見かける木の実や山菜だけを頼りに自然と一体化し悟りを開く、修験道を行うのです。この道を専門に行う人を修験者と言い、各地の寺や神社で神主のような役割をし、村の重要な相談役として担っていて、明治に政府によって廃業させられるまで存在していました。
日本では自然と折り合いをつけることが共同体であり、自然を全くの別の世界として分離し、一神教に頼った西洋の共同体とは全くの別物だったのです。また、自然に対する概念も現在とは異なっていて、西洋における自然は「nature」として生物などの科学的要素が強いのですが、日本の場合、明治までは自然とは「オノズカラシカリ(自ずから然り)」という意味である「ジネン」と読まれ、「自然にそうなった」などの自然界とは全く関係のない意味でつかわれていました。また、「シゼン」と呼ぶ場合は「突然に」という意味が含まれ、これは火山や地震が突然発生することから、「自然」を「シゼン」と呼んでいました。よって、自然と向き合うと行くことは自分が体得するべき技や業を自然に行えるようになる意味合いでの自然と突発的に起こる地震などの災害や異変と自らが向き合うことによって確立させていく個が日本における個となるわけです。
共同体の話に戻りますが、このような自然と向き合って確立された個も当然、共同体が育てたわけですが、この共同体も何十層にも重なっていて、たとえば、農業をしている組合もあれば山林の組合もあり、また、加工や職人の共同体もあるといった具合に、一つの共同体から抜け出してもまた別の共同体によって己を補完することが可能であり、よって、完全に村八分になることは殆どなかったとのことです。また、現在でも畑によって出来、不出来などのばらつきがあり、不作の土地には法冊の土地の作物を分け与え、大地主は小さい地主や土地の人々に大地主の土地で取れる作物や資源を分け与えるなどの協力が不可欠で、もし、この助け合いから外れると信用を失い、結果として発言権を失ってしまうということになるわけです。そして、年中、村の一か所にとどまっているわけではなく、時には修験道の一環として山を長期間に渡って山の神に触れる傍ら、同じく修験道で移動している別の地区の村の人々と交流し、時には専門の宿場で情報や作物の種子、工具などを交換していたことから、むしろ、現在の村よりも外の世界を自然界ともども見つめていたわけです。
また、都心では自然界が存在しなかったとはいえ、共同体が存在していました。これは一度建設された都市部はそれ以上、現在のように急速な発展や建設がなかったことから町の変化そのものも緩やかな片目に共同体が生まれ、その共同体を繋げていたのが山や寺、神宮を目指す講の会員になることと紙幣を出し合うことでした。例えば、長屋で一人の住人が商売に失敗したら、皆で紙幣を出し合って融資という形で貸し付けを行い、講という修験道として山や寺、神宮を目指す会員に入って自然と向き合うことで、村の人々と同じく自然と向き合って個を設立させてきました。
これら共同体の概念が本格的に壊され始めたのが近代化へと進んだ明治時代であり、修験道もこの時に中止になり、廃仏毀釈によって神仏習合もなくなりました。その一方で國家元首たる天皇と個人を結び付ける形で國民にさせ、その邪魔となる共同体を廃止し、個人を年に出して國としての手柄を揚げることを最大の価値とすべく、方針を切りました。よって、明治以降に作られた文部省唱歌のいずれも故郷をすてて、永遠に帰郷しないという意味合いの歌詞ばかりが作られています。この共同体の崩壊は武士が支那をモデルにした中央集権を明治時代にようやく実現し、近代化によって共同体は崩壊に向かい、戦後の高度経済成長に伴い、村は食糧増産地域としての機能しか持たなくなり、都市も激しい変動によって共同体をつくる暇がなくなるほどに人を機械化させてしまいました。
しかし、先の大震災で見られた都市機能の危うさと近代産業の脆さを我々が体感した現在、かつての共同体がより一層見直す必要に迫られます。里山だけではなく、都市内でもこれは同じです。里山資本主義を掲げるのも我が國の歴史から繋がる健全な個と個を育てる共同体を構築することであって、里山そのものを目標とした原始回帰そのものが目的ではありません。
解説が不十分で申し訳ありませんが、小林師範のライジングを購読し、共同体、里山資本主義、「かぐや姫の物語」を含む里山や本物、偽物を題材にした作品に興味と関心を持たれた方には内山節 著 農文協出版「共同体の基礎理論」は必読であることこの場で強く説明させていただきます。
今あなたが体感しているその「共同体」は我が國の歴史から成る本物の「共同体」なのですか?
その回答は、時には不完全でしょうが、すべてに答えることが出来るのが内山節 著 農文協出版「共同体の基礎理論」なのです。