(運営による削除済み)を書いた動機は以下の如くです。
私は、人命を自ら絶つ行為を、とてつもない悲劇と胸を痛める者です。これについて、その人の立場性質を勝手に想像して、これを基に、自死の原因を安易に評価するのは非道と心得ます。特に事情を知らない門外漢が語るのはいけないです。
それゆえ、
>> 42 に反応して >> 45 を書き
>> 48 に反応して >> 52 を書きました。
しかし No 52 は、粛正( ≠ 粛清 )すべきと判断されたようで削除されました。
この不届きを御詫びします。
No 52 で、三島由紀夫に言及しています。
これは、前のコメント( No 48 )で三島由紀夫の死が取り上げられた為に、これを受けて言及しました。三島の最後について、周知の事実を二語だけで記しました。しかし、それに芸人の自死を絡めて「意味と目的」の語の使ったのが取り締りの原因になったと思います。
この語は、その時の流れで浮かんだ語を用いました。しかし、相応しくなかったと思います。芸人の自死は、悩みが重なって精神的錯乱から生じたものかと報じられています。従って、三島の自死とは違い「意味と目的」の語は、そぐわないものです。
同時に三島由紀夫の最後ついて「意味と目的」と添えた事は、テロや武力転覆が流行っている世の情勢を鑑み、
粛正( ≠ 粛清 )すべきと判断されたと思われます。
三島の最後を色々な意味で受け取る人がいます。しかし、世の中は過激思想による過激行為で変えてはならないと心得ています。小林よしのり先生も、各師範方も法的枠組みの中で社会を良くして行こうとされています。自分は、これと同じ考えです。
三島由紀夫の思想を肯定し宣揚する句は、ひとつも入れていません。しかし、形として三島由紀夫の過激な最後を称えたかのように読まれたのであれば甚だ不本意ですし無念です。投稿内容は注意しており、語彙の選択は誤ったものの、削除されなければならないほどの際どい文章を書いた自覚はありません。これは、己を省みないのでは無いです。他客から見れば、こうなるのかと己の感覚を自戒するものです。
また、極めて特殊な事例でない限り、自死に価値判断を加えるつもりはありません。(華厳の滝に身を投げた)哲学的自死とも言われる藤村 操について、不可解、煩悶ゆえに命を絶つなら、両者を抱えるからこそ生きる価値を見出せなかったのは盲点との意見に共感しています。
しかし命を絶つ方に向かった人は、精神が既に、そうなってしまっている事を忘れてはならないです。こうした人は、通常の理屈は通用し無い世界に入っています。自死企図の人と議論する事は困難と想像に難くないです。また、自死は追い詰められ錯乱症状から発作的に多くは行われるものです。防ぎようも困難を極めます。頻繁に聞く自死者を皆、どうにか救えなかったかと思いが募ります。
色々と申しましたが、私の書き込みを誤解してゴー宣道場の主旨を勘違いされないでくださいますように、諸氏に御願い申し上げます。
他に、到ってない点について批判を仰ぎます。
粛正( ≠ 粛清 )された以上、原文を再掲載出来ないので、説明が、分かりづらくなっています点は御容赦願います。