少しおじゃまします。
先日の出来事を、かりに「彼」にあてはめてみると、
「彼」の長年研究してきた成果の発表会の際に、予期せぬ闖入者が現れて、発言をさまたげられ、会そのものをめちゃくちゃにされた
というのと同じではないか、と思うのです。
ライジング記事でよしりん先生のおっしゃられている通りなのでしょうが、好意的に解釈するならば、議論に熱中し、昂奮して我を忘れてしまうこともあるやも知れない。しかし、それだったら、会の主催者や参加者へ、「会を台無しにしてしまい、すみませんでした」という一言があって、しかるべきでしょう。主催者側が立腹したとしても。既に手遅れでも。
というのが、私の意見です。だから、あのツイートを見て激怒しました。あからさまに「ゴー宣道場」と記されていなかったとしても。
私も大阪まで足を運んで、あの出来事で結論が出なかったことを遺憾に思います。それでも「彼」が自己の研究に真摯である、いのちがけであると想像したからこそ、大目に見ようというふうに感じたのですが。
人としての最低の態度を示して欲しい、連帯する気がないとしても、もう協力関係を築けなくても、と願います。こういう私は甘いのでしょうか。
いづれにしても、よしりん先生が立腹されていることに気づかなかったことをお詫びします。
私もthe_kさんの意見に賛同します。コロナ版「差別論」、イメージ戦略、参考になりました。
私には「ゴー宣道場」などの影響で、あまりコロナ恐怖のイメージは植え付けられていないのですが、周囲はそんな感じですね。個人が抵抗したとしても、廻りの人がそれを固定化し、確固たるものにしてしまう。そこに理屈や論理は存在しない。異論を発言したとしても抹殺されてしまう。コペルニクス的転回が必要ではないか、と。美辞麗句、駄文を記していますが、恐らくそうなのでしょう。
私はスピリッツで連載されていた「チ。」が好きだったのですが、あれを読んで一般大衆は何も感じないのでしょうか。ただの「地動説」のための犠牲の話としか感じないのでしょうか。あれこそ「科学的な思考をする」ことの重要性、大切さを描いた作品だと思うのですが。
実を言えば、私はスマートフォンを所有していないので、そのことについてはよくは分かりません。昔読んだ学研の学習漫画では、トイレで便をした場合、病原体が大気中にただよい、トイレの扉などにつき、それに触ることで感染をするというふうに描かれていましたが、「コロナ論5」の第2章はそのことにまつわる話だというふうに理解しています。
糞口感染ということについては、もう少し深く理解できたら、確認できたらと思います。
私も、はやくマスクの要らない、普通のありふれた、みんなが正常な思考をする世の中が到来して欲しいと願います。
金曜日の生放送を期待します。お忙しい中、感謝いたします。横浜のライブも応募しました。