すみません、少しむっとすることがあったので、感想が遅くなりました。
〇 ゴーマニズム宣言・第471回「安倍晋三を信じたわしの黒歴史」
一言。恐らく安倍って、保守界の「アイドル」だったんだろうと思います。何かをやってくれそうな感じで、絶対に何かをしでかしてくれるであろう、「スーパースター」だったのでしょう。小泉純一郎にも、そういうところがあったように感じます(そういえば、小泉今日子の歌に「なんたってたってアイドル」がありましたけれども…冗談です)。
しかし、実態は、中身のない、ただの拔け殻だったのでしょう。それを何となく形があるように維持していたのだろうと思います。
実際のアイドルスターだって、自分を商品として売り出すために、歌や踊りや演技や表情のレッスンなど、たゆまない努力を惜しみなくつづけ、自分の中身を作ろうとしていると想像するのですが、安倍の場合は「人気」だけが欲しくて、何となく人の顔色を伺い、それに見合ったことだけする。ホステスだって、お客さんと接待するために、知識を修得し、教養を身につけ、自分の意見を言えるようにするのでしょうが、安倍の場合は「自己保身」を目的とする、その場しのぎ、一時しのぎで、いわゆる「蝙蝠」(こうもり)だったわけでしょう。「郷原は徳の賊なり」と言う言葉が『論語』にはありますが、それに当てはまるものだった。その報いを、今回の統一協会かかわりの事件で受けた。自業自得であったと言わざるを得ません。
確かに政治家は権力を握ってなんぼのものであり、実力がなくて空騷ぎしていても何もなしえないので、何とか政権の中枢にいるか、または周囲からそれに影響を与える位置にいなければいけないのでしょうが、だからといって、自分の「信念」や「意見」を裏切ってはならず、いざとなったら、いのちをかけて、頑固といわれても自分のやりたいこと、やらねばならぬことを貫かなければならず、人気取りに苦心してはいけないわけですが、つい権力の栄養や支持基盤が「人気」であると錯覚し、多数に迎合することが快感になり、長いこと「注目」されることが己の実力であるかと思い込んでしまうのでしょうが、その影には目に見えないところでそれを支えている「誰か」の存在を忘れてしまうのだとも思うのです。今回のコロナ騒動で尾身茂とか玉川徹とか、宮沢孝幸とか宮坂とか似非専門家とかが陥っている思い違いもそれなのでしょう。
私たちはそういう勘違い野郎に、「ノン」と言ってやらねばならないと思います。それはその権力の亡者のためにも、彼らが反省するきっかけにもなり得るのではないか、そんなふうに思います。安倍の場合はもうそれが不可能ですが、未亡人になった昭子さんがそういうことを考えて下さったら…というのは無理なんでしょうか?
結構きついことを述べましたが、私もひょっとしたら、自分のことしか考えていない「郷原」なのでしょうか?改めて『民主主義という病』を読み直してみて、デマゴーゴスとかの意味を理解しないといけないのでしょう。以上です。
〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第265回「脱会しろ! 統一PCR教会」
私は最近は野球の方はあんまりで、相撲の方は、時折TVをつけたりしていますが、「不戦勝」を見るたび、いったい何のために七月場所を開催しているのか、という気分になったりします。野球の方も見たら同じように感じるのでしょう。ニュースでは選手が少なくなったとかやっているのは聞いていますが。
ワクチンの件は確かにもっともらしく見えてしまうし、これ以上効果のないものを摂取するのはいかがなものかと思うのですが、それ以前にウイルスを可視化するものを積極的に行った結果が、今の事態なのだろうと思います。
新型コロナウイルスは存在しない、なぜならそれを証明する検査に立候補する学者が存在しないから、という意見も耳にしますが、目に見えないものが存在しないというのなら、酸素だって、窒素だって存在しないことになるのだから、ウイルスだって存在しないということになり、とどのつまりはそれを研究する学者も不要、ということになってしまうのでしょう。だから、そのような不確定なものを証明する学者がいなくなる、ということなのではないか、という気がします。
未知の領域は専門家があとで研究するとして保留し、分かる限りのデータで対応しておけば、今の事態は起こらなかったのでしょうか?それとも、風邪をひいたら、うがいや安静にすることで対応しておけば、いちいち感染者が何人とかを気にしなくても済んだのでしょうか?とどのつまりは、分からないうちは今できることをする、そして、事態が見えてきたら、それに見合ったことをする、それだけだったのに、中途半端な結論や科学で真実を見えなくしてしまったように思えます。宗教は、真理が見えないから、真理を追究するものであって、御利益だけを求めるものではなかったはずです。そのことを勘違いする人たちが、統一協会やオウム真理教のような似非宗教にもはまってしまうのでしょう。学問の可能性も答えが分かっていないことにこそ意義があるような気がします。その方が、結論を限られた方向にしか向かわせるようなことはないと思うので。
とりあえず、昔のドラマの歌ではないけれども「運がわるけりゃ死ぬだけさ」でいいんじゃないか、と。
関係ないですが、私のよくかようスーパーでもこのところ、マスクの着用を店員がチェックするようになり、とても頭を悩ませています。私は指定されたら慌ててつけたりするか、あるいは「マスクを忘れてきました」→「では、こちらで用意します」→「すみません、ありました」。いづれにしても、後で外したりしますが。そんな感じです。
以上です。本当に遅くなり、すみませんでした。それでは次号を期待します。今回もコメント、全部読む暇がなかった。一日一日暮らすだけででこんなにも忙しいのに、PCRだ、ワクチンだなんてことになぜこだわれるのだろうか?
追加
細かいことはあとでよめたら、と思うのですが…仏教の「末法思想」と同じような気がします。