オドレらLIVEで、グレンコさんが説明されていた、フィンランドがロシアに譲ったという地域のことを少しだけ補足説明します。と言っても、私もおおまけにしか知らないおだけれども。既にご存じのかたは読み飛ばしてください。
ロシアとフィンランド(スオミ)の国境地帯に、「カレリア」と呼ばれる地帯があります。実はこの地はアジア系であるフィンランド人の聖地であり、元々の居住地でした。「カレワラ」というフィンランドの民俗歌謡はここに由来しています。
実は「フィンランド」という国は20世紀になるまで存在しておらず、スウェーデンの一部でした。このコロナ騒動で、反マスクの国として一躍クローズアップされたスウェーデンですが、実は北欧のみならず、ドイツ国内にも封土を有するヨーロッパ隨一の強国で、ロシアとも覇権を争ってたびたび戦争をしていました。世界史の教科書で、「三十年戦争」のところで登場する「グスタフ・アドルフ」さんはその代表的な王であり、その女クリスティアーナも名君だったそうで(途中で王位をいとこに譲り、ローマカトリックの修道女になりました)、さらにその後をついだカール16世は戦争の名人だったそうです。カレリア地方も、ロシア・スウェーデン両国の係争地となり、結果、ピョートル大帝のロシアが勝利し、占領地に「サンクトペテルブルク」を建設しています。
フィンランドから脱線してきましたが、以上のような経緯があって、カレリアも含むフィンランドすべてがスウェーデンからロシアのものとなってゆくのですが、第一次世界大戦終結後、晴れてフィンランドという国家が(カレリア地域の大部分も含めて)成立しました。しかし、サンクトペテルブルクにあまりに近いという理由で(先述したように、それは当然なのですが)、ロシア帝国を継承したソ連はほかのカレリア地域もよこしてくれと、第二次世界大戦初期に「冬戦争」という戦役を起こしました。これは苦戦状態になり、グレンコさんが解説したように、モスクワ条約でカレリアの要塞部を渡してくれで和平になりましたが、その後、継続戦争という戦役をふたたびソ連が起こし、こちらはナチスドイツの侵攻で自然におさまった、といった感じです。以後、カレリアの大部分は「カレリア共和国」というソ連、のちのロシア内の国家となり、現在にいたっているわけです。
これだけでは不親切なので、今は販売されていない某百科事典の「カレリヤ」項目などをつけます。おそらく著作権侵害にはならないでしょう。
カレリヤ
│I│プロローグ│
カレリヤ Kareliya ロシア連邦内の共和国。ヨーロッパロシア北西端にあり、西はフィンランドと国境を接し、東は白海、南側はラドガ、オネガの両湖に面する。カレリヤはロシア連邦21共和国のひとつである。共和国は、連邦の地方自治体の中で最大の自治権をもつ、特定の民族を基盤とする行政単位である。面積は17万2400km²。人口は78万人(1997年推計)。主都はペトロザボーツク。
共和国域内は全般に起伏のある平原で、西部には山地もあり標高は最高578m。白海や湖の沿岸部がもっとも低い。冬は長いが、ロシアの他地域にくらべれば穏やかである。夏はすずしく、比較的湿度が高くなる。年降水量は南西部で600mm、北部では400~500mmほど。代表的河川としては、ケミ川、ブイグ川、ケレチ川が白海にそそぎ、ボドラ川、アンドマ川などがオネガ湖にそそぐ。全土のおよそ半分が森林におおわれる。ラドガ、オネガ、ブイゴゼロ、トポゼロ、セゴゼロなどの湖があり、その面積をあわせると総面積
の20%近くに達する。
│II│住民│
行政の中心地ペトロザボーツクの人口は28万2000人(1997年推計)。住民の74%が都市部にすんでいる。ペトロザボーツクには1940年創立のペトロザボーツク国立大学、ロシア科学アカデミーの支部などがある。主要都市は、ベロモルスク、ケミ、コンドポガ、メドベジエゴルスク、ソルタバラなど。全住民の75%をロシア人が占め、10%を基幹民族であるカレリヤ人、残りはその他の民族である。カレリヤ人はフィンランドのフィン人と同系。言語はフィン・ウゴル語派の2つの言語、カレリヤ語とウゴル語が使用され、とくにカレリヤ語はフィンランド語に近い。カレリヤ語による最古の記録は13世紀のものである。1835年にはフィンランドとカレリヤにつたわる叙事詩「カレワラ」の一部が、はじめてフィンランド語で出版された。カレリヤ人の
大部分は、中世に東方正教会に改宗している。
│III│経済、政治 │
代表的産業は、製材、木工、地下資源採掘、機械製作、金属加工、建築資材製造など。農業では酪農、養鶏、毛皮用動物の飼育、ジャガイモや野菜類の栽培が盛ん。漁業も活発である。電力はおもに、水力発電によってまかなわれている。鉄道、道路、空路によって共和国外の諸都市とむすばれ、またラドガ、オネガ両湖の水運や、白海・バルト海運河も利用されている。
政治は選挙によってえらばれる行政府の長と立法府が担当する。ロシア連邦議会には、連邦会議(上院)に2議席、国家会議(下院)に1議席の計3議席をもつ。連邦会議の2議席は行政府の長と立法議会の長が
兼任する。国家会議の1議席は、共和国を範囲とする選挙区からえらばれる。
│IV│歴史│
現在のカレリヤにあたる地域では、中世初期に、スラブ民族が南部や白海沿岸にすみはじめた。9世紀以降、カレリヤはロシア人初の本格的国家であったキエフ・ロシア(キエフ・ルーシ)に支配され、12世紀にはノブゴロドを本拠とする国に占領された。13世紀にはスウェーデンがカレリヤの一部を侵食し、北部進出をねらうロシア人と衝突した。1617年ロシアはスウェーデンによるカレリヤ領有をゆるしたが、北方戦争(→ スウェーデンの「北方戦争」)でスウェーデンをやぶり、1721年のニスタット条約(ニュースタード条約)によってとりもどした。
ロシア革命(1917)とその後につづいたロシア内戦(1918~20)の際には、フィンランドとロシアがカレリヤをめぐってたたかい、1920年、この地方でのロシアの覇権が確立した。同年6月、行政機構としてカレリヤ労働コミューンがもうけられ、3年後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の中で、自治共和国となった。39~40年のソ・フィン戦争で獲得した領土が編入され、カレリヤの範囲は拡大、カレロ・フィン・ソビエト社会主義共和国として、ソビエト連邦に直接加盟した。しかし、域内でのロシア人が増加してカレリヤ人やフィン人をうわまわるようになったため、56年、ロシア共和国内の自治共和国に格下げされ、カレリヤ自治ソビエト社会主義共和国となった。カレリヤ人はロシア人との同化がすすみ、89年の調査では、都市部にすむカレリヤ人の56%、農村部のカレリヤ人の35%がロシア語を母語と認識していることがわかった。ソ連時代末期、カレリヤの言語や文化の復興をめざす運動がおこり、91年のソ連の崩壊により、カレリヤは独立国家ロシア連邦の中のカレリヤ共和国となった。
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ソ・フィン戦争
│I│プロローグ│
ソ・フィン戦争 ソフィンせんそう Russo-Finnish War 第2次世界大戦初期の1939~40年、および後期の41~44年にフィンランドとソビエト連邦の間で2回にわたっておきた戦争。ソ連は、ドイツ軍がフィンランド領を通過して攻撃してくることをおそれ、レニングラード(現、サンクトペテルブルク)に近いフィンランドの領土を他の地域と交換して割譲するよう要求したが、フィンランドが拒否したため、戦いがはじまった。
│II│第1次ソ・フィン戦争 │
1939年11月30日、外交交渉が決裂し、ソ連は宣戦布告なしにフィンランド攻撃を開始した。空軍がヘルシンキなどの諸都市を爆撃し、海軍がフィンランドの港湾を砲撃、陸軍部隊が国境をこえた。ソ連側は全長1500kmにおよぶ両国国境線の要所要所に、およそ20個師団の兵力を配置したが、フィンランド軍は、開戦時には歩兵3個師団、騎兵1個旅団、戦車1個中隊しかもたず、多くはあまり訓練をうけていない予備兵にたよっていた。フィンランドの将軍マンネルヘイム男爵は、わずかこれだけの兵力でソ連軍と会戦した。
ソ連軍の最初の攻撃は、幅113kmのカレリヤ地峡の首にあるマンネルヘイム線とよばれる要塞(ようさい)とコンクリート製トーチカの列にむけられた。12月初旬にソ連軍の4つの部隊がマンネルヘイム線の北方を突破したが、きびしい寒さ、森におおわれた地形、スキー部隊の機動力などによって、フィンランド軍は翌年1月までにソ連軍の補給線と通信線を切断し、先遣部隊を退却させた。
フィンランド軍の善戦は1月いっぱいつづき、中部・北部に侵入したソ連軍の師団、戦車旅団を殲滅(せんめつ)した。当初はレニングラード軍管区の部隊だけでまにあうとみくびっていたソ連軍指導部は、あいつぐ敗北に組織の立て直しをせまられ、チモシェンコ元帥が指揮をとることになった。チモシェンコは約30万の兵力をマンネルヘイム線に集中させ、大砲と空軍が攻撃軍を支援した。
1940年2月1日~10日にかけて、うちつづく消耗戦でソ連軍は多大な犠牲をはらわされたが、フィンランド軍の抵抗をうちくだいた。ソ連軍は2月14日にスンマに大攻勢をかけ、16日に同市を占領、3月11日にソ連軍先遣隊がマンネルヘイム線西側の要衝ブイボルグ(フィンランド名、ビープリ)にはいると、フィンランドはついに和平を要求、イギリス、フランスの参戦の動きを知ったソ連もそれに応じ、翌日に講和条約がむすばれ、両国は停戦した。
過酷な講和条件によって、フィンランドはカレリヤ地峡など4万1888km²の領土を割譲させられた。さらに、ハンゲ半島と隣接する島々をソ連の軍事基地として30年間にわたって貸与する、ソ連の市民と貨物がペッツァモ地方(現、ペチェンガ)を通過する権利をみとめる、などの譲歩を強いられた。
│III│第2次ソ・フィン戦争 │
│ │ │
1941年6月、フィンランドは前回うしなった領土を回復しようとして、ドイツと手をむすんでソ連を攻撃した。しかし、44年には戦況がドイツに不利になり、フィンランドはソ連に講和をもうしいれた。ソ連が提案したきびしい講和条件には、3億ドル近い賠償金要求もふくまれていた。
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