サトルさま
ねこみみさま
サトルさん、長々しい文章に目を通して頂いて、恐縮です。まさに「定義」が、このテーマの議論において大きな問題になっているように思います。
私たちはしばしば「女系天皇を容認すべし」と言ってしまうのですが、それは厳密には、やはり間違った言い方でしょう。それは定義上、天皇となる者は常に「母の母の母の…ラインで皇祖と結びついていなければならない」ということになってしまい、そうなると、もし愛子さまが天皇になられたとして、それ以降の天皇は「女系の男女」だけに限る、ということになってしまいます。これは、現在の「男系の男子」に限るという規定を、そのままひっくり返しただけということになります(女性も天皇になれるようになるのはプラスですが)。そして、言うまでもなく、そういうものを私たちが望んでいるわけではありませんよね。
さて、こういう「定義」の問題をこちらが整理して、私たちが実現しようとしているのは「男系継承」から「双系継承」への移行なのだ、と主張したとしても、相手方の男系固執派のほとんどは、「男系から女系」だろうと「男系から双系」だろうと、いずれにしても今の「男性天皇・男系継承」を改変しようとするものだから、どちらでも同じことだ、断じて許せない、ということになるでしょうね。
ただ、私はどんな討論であっても、相手の中には必ず、論理、ものの道理。つじつまが合うかどうか、理に適っているかどうか、ということを頼りに、正解は何かを模索している人が一定数いると信じたいです。そういう人と、かみ合った対話ができるようになるためには、この用語の定義を明らかにして、交通渋滞が起こらないようにすることは、不可欠だと考えています。
最終目標は「女性天皇・双系継承」を実現することなのだから、戦略的に、既に定着してしまった現在のスローガン「女系天皇を公認せよ」でこのままやっていくのか、それとも「双系天皇を公認せよ」という言い方に買えるのか、どちらがいいのかということについては、私には判断がつきません。運動論的見地からすれば、どうなのかという問題ですね。政治家とか弁護士さんなんかだと、最終的な目標を達成することを第一に考えて行動するのでしょうね。
いま、中川さんの話が大変な感じですが、そこで the kさんが、論破祭りについてはちょっと懸念があるということをおっしゃってましたね。うん、そう、対話が…成り立たない場での戦いなんですよね、基本的に。 本当は、社会学者の清水幾太郎が言うように、相手の言葉の裏側にある個人的体験を思いやりながら、相手の主張を正面から受け止めつつ、ひたすら「かみあった対話」によって問題ある状況を少しでも良いほうに変えて行く、というのが大切だと思うんです。
でも、なかなか、そういうのは難しいですね。小林先生と井上達夫さんの対話みたいなのが、もっとたくさんなされればいいのですが。なかなか。
ねこみみさま
土曜日にいっぱいやりながら、世のことを考える… なんかいいですね。
男系固執派が言う「126代も続く男系継承」というのが、そもそもそもそも、フィクションであることは、よほどアブナイ人たちでないかぎり、この議論に関わる人たちはの多くは心の中で分かっているはずなんですよね。126代、DNAが続いているなんて、そんなわけないですやん、ということ。たとえ「双系」で考えたとしても、話は同じです。私も酒飲んだ気持ちで、言います。神武天皇と愛子さまが、血がつながってるわけ、ないやろが!
ただ、そういう科学的な話ではなくて、私たちは万世一系でも万葉一統でもいいですが、ひとつの「フィクション」を奉じているのだということですよね。神聖なフィクション、ということ。まともなクリスチャンなら、聖書的創造論も認めるしダーウィン進化論も認める。それぞれ別のリアリティの次元に属する、みたいなこと、言うと思います。
そんなことを思いつつ、よい晩酌をおつづけください。ラガヴーリンというウィスキーをお勧めします。
うさぎより