遅まきながら、今号の感想です。いいわけですけれども、今週はとりわけ落ち着かなかったです。個人的な書類のこととかで。安倍の葬式とかはどうでもいいけれども…。
〇 ゴーマニズム宣言・第476回「【テロに屈するな】という標語は無意味」
私もこういうことをかなり勘違いしてきた方なのだけれども、世の中には何らかの「法則」や「定理」みたいなものが存在し、それに外れるものは「例外」みたいな形でしか理解できなかったのですが、人間個々人で性格や行動や経験などが異なるように、いろいろな場合がある、それだけなのでしょう「山上はテロリストだ」と決めつけるのも、「小林よしのりファン」を「小林よしのり信者」とひとくくりにしてしまうのも、同じことであるように思えます。
評論家や政治家は、「テロに屈するな」というキャッチフレーズを決めてしまうと、それが単純明快で、大衆に向けて分かりやすいとでも思ってしまうのでしょうか?」
「復讐」にせよ、テロリズムにせよ、それを行うための「動機」があるわけで、その動機がまったく同じであるわけがないです。ミステリーでも全く同じ理由で犯行が行われるとしたら、それは駄作と言われても仕方がないでしょう。血盟団事件と桜田門外の変が同じ理由で起こったと主張する歴史学者がいたら、それは歴史音痴、常識外れだということになります。
だから、人間関係が煩わしい、同じような対応で、同じ反応にはならないから、となるのでしょう。
下らないことをだらだら書きましたが、情報蒐集はその意味でも大切で、情況整理ができていない状態では、迂闊なことを口走ってはならない、間違った発言をしてしまった場合には、素直に先にその対応をしてしまった理由を述べながらわびて、新しい判断、ではなく、正しい判断をすべきではないのか、と思います。
自分だけのものさし、ジンクスや迷信、度量衡、規矩準縄(きくじゅんじょう)でものごとを判断してはならない、広い視野に立って、幅広く、なおかつ歴史的な情況や、常識や現状なども見据えないと、『ドンバス』の映画のようなことになるのでしょう。
以下、雑談です。
安重根の件ですが、私は(『大東亜論』の主張からは外れますが)この役を押しつけられてしまった伊藤博文の側の事情も考慮すべきではないか、彼のテロリズムによって、日韓併合が阻止できたのか、という意見です。もっとも、もうそれは韓国国民の與論からも無理なことで、一矢を報いるといった気分だったのでしょうか?
私には、山上本人の口にしていることだけがすべてではない、彼の内心には、これが世直しになる、という自己の行為への正当化もあったのでは、という気がするのですが…考えすぎでしょうか?
江戸時代の田沼意知(田沼意次の息子で、若年寄)の暗殺に、『世直し大明神』と喧伝した江戸大衆の姿が、今の世情と重なって見えます。「元の濁りの田沼恋しき」となったりするのでしょうか?安倍を庇う気は毛頭ないですが。
〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第270回「データ検証・日本のコロナ死はたったの1%」
コロナの話も何だかばかばかしく感じられるのですが、ある人に久しぶりに面と向かって会った際、携帯電話を貸したら、洋服で拭ってから、受話器に口をつけていました。もう、そういう生活習慣が身についてしまい、それを容易にくつがえすことは難しいのでしょうか?
木蘭さんがあげてくださったグラフの話も、いまさらながらという気もするのですが、自分がそれを人にすすめようとすると、どうも自分の人格とか、これまでの行いとか、あるいは「人のすることに口出しをするのか?」「あんたの考えていることがすべてだと思ったら、大間違いだ」というふうな反応になったりするのです。冷静に、論理的に考えるということが、どうしてかくも困難な事柄になってしまったのか、と。
数字を見て、比較をして、考えて、理解をすればいいだけのことでしょう?
先年なくなった、痴呆症を煩いかけ、自宅介護をしていた私の親も、誤嚥性肺炎を起こして入院し、結果、老衰で息をひきとりました。人は死ぬときは死ぬ、それだかなんだ、と実感しました。私もいつかは、そのようになるのでしょう。恐らく、一人で。そう感じています。
では、次号の配信を期待します。このところ、ライジングコメント、ろくすっぽ目を通せてなくてすみません。
安倍の葬儀がやるから、「竜とそばかすの姫」のTV放映、解禁になったのでしょうか?これも一種の「自粛」だったような気がします。
個人的なことですが、急いては事をし損じる、急がば廻れ、です。事務的な手続きは慎重に、一度にいろいろなことをしすぎないように、かな。