丑三 やギ の削除コメント


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遅ればせながら同意します。

健康でも、虚無を感じたら死んでいい、何時でも死ねる権利と言うのは有りえません。生命が死ぬ権利を有するなら、心臓を勝手に止められるはずです。生命は可能性と思います。生きていれば、生きているだけの福を得られるものです。同時に苦を得られるものです。苦を持ち続けながら、これが解消不可能で、生きるのが苦でしかないと言う場合なら、安楽死は一考する価値は有ると思います。

しかし、他人が他人を姥捨山に捨てるかのように、相手に死を望む、また、そうしてもらいたいと思うなど以ての外です。会話を聴きながら、死苦を実際に考えた事の無い若造の無頭脳を感じました。

逆に、苦が有るからこそ、かえって生きる価値と言うのも有ると思います。これを考えず安易の過ぎます。生死一大事を知らずして、ゴー宣で社会問題を考える意味と価値の有るか問いたいです。

歳をとったから、もういいじゃないかと命についてよく言えるなと思いました。
その歳になった、その人が孫を抱きながら、同じように思えるか非常に疑います。

老いた生を見苦しいと言うなら、今の自分が、稼いできた老人以下の稼ぎで、老人の歳まで同じくらい稼げない計算が出来たら、若くても、その生は無駄なので、死んでもらいたく思います。75 くらいで安楽死を提案した人は、その歳で、本当に自分から安楽死を望めるでしょうか。疑っています。これまで生きて来て、幼い頃は遥か遠い未来でも、いざ、今の歳になれば大した事はないでしょう。本当に一瞬ですよ。

何ぞ、経済性で死(殺し)を考えている功利主義の人がいます。己は、楽に死ねる施設は作って欲しくないです。作ってもらうとしたら、殺人処理してくれる施設を作ってもらった方が覚悟のいいです。そうすれば、死を見つめ生を自覚した国民が増えて、日本は良くなるかも知れません。一つの国に姥捨山装置に名を借りたアウシュビッツの出来上がりです。しかし、こんな結論に達するなら、本気で徴兵制を議論した方の増しです。

大事な子どもを無碍に死なせて、死にたい中、辛くても必死に生きている人達がいます。他の家族の存在、果たすべき仕事などの為に、生きて踏み止まっている人達が、ざらにいます。当たり前のようにいます。そうした人達を、あざ笑うかの「ような」他人事を聴くのが非常なる苦を感じました。

一つ、勇気が有るなら死んでみてください。讃えませんから、己で己を讃えて死んでください。実際に自死する人は、生きる一環として死んでいます。惜しみこそすれ、これを肯定し、積極的に讃える性根を己は持ち合わせておりません。

人が自死する事に意味があるのでしょうか。相当に洞察のなければなりません。簡単に考えて、もし有るとしたら、それは生きる価値においての自己完結になります。

究極の戦時、戦場は、別の話です。戦場に行った人たちは、それは権利意識が高いはずです。命を国の為にかけて、命半分、死の国に入れたのですから、分からなくは無いです。実際は、どうか取り調べないと分かりません。

己も、じじい、ばばあになって、ますます元気になろうとしていた人たちを見ていました。別に違和感はないです。違和感が有るとしたら、よしりん先生に、60 半ばになって、連載増やして頑張るなと言いたいです。頑張り過ぎて、死にぞこなって、ヨイヨイになってくれるなと言いたいです。もう、ええやんかと言います。せいぜい、命を養って不具にならずに、きっぱり死んでもらうように請い願います。そうでなくなった場合は、豊富な資産を有効活用して、安楽死出来る装置を身につけてもらうか、毒を持ってもらい、いざという時は、この薬を飲ましてくれと言うカードを身につ付けてもらいたいです。もし先生が中風でも患ってぶっ倒れでもして、近寄って来た人が善良な人なら、治療の為と思って飲ましてくれるでしょう。知らないうちに自殺幇助になりますが、運がよければ起訴されないでしょう。

少なくても、平時において、社会は人の死を前提にしてはいません。人が死んで経済的楽を受けるからいいなどは、人を物と銭に置き換える人で無しの考えです。

自死して、世の中が変わるかといったら、何も良い方に変わらないです。「変わらないのですよ。」良く変わった例は、未だかつて聞いた事が有りません。学校で、職場で、いじめに苦しんで死んだ遺族に聞いて見れば分かります。反対に嘆き悲しみ以上の地獄が待っています。

三島由紀夫が死んで、何か変わりましたか。大東亜で大量に死んで、処刑されて何か変わりましたか。その瞬間を想像出来ますか。確かに、一旦、社会制度は変わりました。しかし、安倍晋三が出て来ているでは無いですか。此奴は、死んでいった人たちを美しいと言っているのです。変わらない性悪根性は必ず残って復活して来ます。

座談会の中で、安楽死を提案するまでが限度です。死ぬ用意をしろとか、死ねとか、死んでもらいたいように言うのは、己が死んでから吐いてもらいたい言葉です。これが思想信条の自由でも、己は思想信条の自由で大いに非難したいです。死に支度は、あくまで個人の作法です。

気安く話した内容かと思います。事務的に特化した話だったとも思います。過度に反応して申し訳なく思います。こんな異常反応されていたら、何も議論は出来ませんよね。己で勝手に話を膨らませた所も有って失礼しています。でもね、姥捨山の議論をするなら、徴兵制の議論が先だと思います。確率的に何十人も死なすなら、国民全員がスパルタン化の方がいいです。その代わり、自分の子が戦闘訓練で死んでも、駄目な烙印を押されて殺処分されても文句は言わない事です。

何ぞ、障碍者施設で皆殺しをしちゃった人はいけないとか、恐いとか、ネットで本気で思っている人がいるとか、思っているだけならまだしも実行はいけないとか聴きながら、その謀議をしている「ような」会話が有ったですよ。こんな過激主義の人のいました。過激主義でも、実際その覚悟が疑われます。

今回の話を聴いて、公文書改ざん、隠蔽、口裏合わせをしたと聞いたら、ただではおかんのと同じく、非常に警戒する人が出来ました。聴きづてならんですね。何回も聴いて、はっきりさせたいと思います。

分際を顧みず、こんな事が書けるのも録音のおかげです。懲りずに、大いに座談会をしてください。こんな事で自粛はしないでください。聴かせて頂き、編集をして頂き、何時も感謝しています。

日時
2018-04-10 02:57
投稿者
丑三 やギ
記事
「籠池は冤罪であり、不当な勾留であり、人権侵害であり、憲法違反である」小林よし…
No.
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