門下生チャンネルを聞くと、市井の議論の典型を聞いている感じで楽しいです。政治経済の話を難しそうだからと棚に上げて、誰かに任せとけばいいんだってのは駄めぇですね。
よしりん先生を棚に上げて大事に飾っておこうとするのも駄めぇですね。先生自ら、読者の元に来てくれると言うのに拒んだりしたら勿体無いです。
よしりん作品は現実と同期しています。よしりん作品をコマの中に閉じ込めておく事に無理のあります。権威主義が大嫌いで、奉られる事の好まない先生が来てくれるのでしたら、こんなに有り難い事はありません。意志のあって能力のある人は接して、よしりん作品を現実のものにすればいいと思います。
先生はみんなのもの、作品を読んでいる時は自分だけのもの、読者が、こうべを集めて話し合っているのは馴れ合いをしている感じで嫌だ、と言うのは、先生の作品や主張を理解されておられるのか疑います。
これを先生が、読者を甘やかして増長慢を作って混乱させるとか言うのは違っていると思います。
ただ、増長満の選民意識での騒動は、これからも起こるでしょうね。それは、それでいいと思います。器量の問題ですから。よしりん作品、ゴー宣道場、ブログ、ライジングの思想範囲での交流で、しかも、動員でも運動でも無いのに距離感をわきまえられない人は、去ってもらった方のいいです。先生と読者の間に入って、架け橋となるべき人の数は、別に決まっているわけではありません。架け橋となれる技量を持ち、志しの有る人が残ればいいだけです。
それでも人が集まるのですから、叩き、叩かれる人も出て来るのは必須です。しかし、どちらもまた器量の問題です。叩かれて心外だ、人を見て物を言えという年少は消えて行くでしょう。忠告を受け入れて、謙虚に現実の限界を見ながら理想に邁進する人は必ずいます。また、叩く方も、熱して叩いて曲げて叩けば、立派な刀になる玉鋼とみて忠告出来る人だけが残ります。
そういう中で、読者代表で先生との架け橋になろうとする人や動きを見て、引きづり降ろそうとするのは辞めてもらいたいと思います。ゴー宣と門下生の繋がりは、現代社会において稀有な存在と考えます。
憲法の良識で、憲法の権威が、俗衆は憲法を知らなくていいんだのように、憲法を、棚に上げて拝ませるようにするのは、無体であるのは御承知の通りです。同じように、ゴー宣を棚に上げ奉って触れてはいけない尊格に祭り上げるのは、先生の志し、作品、目的と読者を乖離させる仕業です。憲法の良識を標榜する憲法の偽権威と同じ事をしてはもらいたくないものです。
成功するかどうかは別にして、左右に水をぶっかけ、同時に左右に油を注し、左右均衡を保ちながら現実の限界を知り、理想に邁進する人の邪魔をするのは罪深いと思います。
よしりん作品を中心に議論社会の基が広がるのを期待しています。