丑三 やギ の削除コメント



悩みのるつぼで、更に悩みのるつぼに墜落する「悩みのるつぼ」に、やギ の挿絵は、何の意味が有るのか?

誰かが挿絵を見て、やギ ならコメントで、こう書くだろうと予想しているかと思ったので忖度して書きました。

トンデモの内容については駄めぇです。

モウッ!「飢えの恥事子」は、妄想にもならない妄想しなのら永遠に千羽鶴を折っていればいいんじゃないの。

わけのわからん奴と交尾して、粘っとりギトギトまみれの親を、子どもが受け入れられるわけの有りません。

物理的に浄か不浄か、恋の自由とかの問題で無く、子にとっては穢らわしいはずです。口をきくのも、三ヶ月は蛸壺に入って塩漬けになってもらい、田んぼの土に埋まって、一年は毒抜きしてもらいたくなるのが普通です。

田んぼをあなどってはなりません。肥えた土なら、触っただけで手が良性バクテリアに喰われます。凄い分解が行われて肌は大荒れです。稲はグングン育ちます。それだけ浄化作用は強いです。

まい、高校生なのだから独立せいと言う御意見はありますものの、簡単に見切りは出来ますかいなぁ。旦那が、女房が不義をした時、あっさり手を切り、また、許すと言うのは、余程、特殊な例と思います。腹をかかないと言う人はおるんでしょうけれど、人情的、経済的にさっさっと蹴りを付けられる人って、親や子が喪われても、また己が不治の病を宣告されても、見切りの良くて後生のよろしいようで羨ましいと思います。

しかし、子の理不尽な死を受ける感情を整理出来ない親と同じく、親の不義を整理出来ない心の子の方が多いと思います。

性悪な年少は、上の辺りにおいて、見切りのいい家庭におって、後生のよいかと思いきや、そうではなく他人に冷酷で、年少のくせに(また成人した よい歳のくせに)己の男、また女になると見切りなんか着けられずに気ちのいになりやすいです。時に己から離すくらいなら、残酷に相手を破壊します。

よしりん先生もなぁ(小指の方は)御妻君様に諦められていて、許可も御取りのようですが、もし動けなくなったら復讐されるのではないかとの恐怖心の一抹や、罪悪感の描写を時々お見受けします。必要になったら、容赦無く引き金をひく先生ぴゃんです。御自分にも容赦無く引き金をひかれる覚悟の表れと見ています。

普通の家庭なら、家庭崩壊する一因になります。そうでなければ、離婚における いざこざは、もっと少なくなります。

子を喪った親は、平気なようでいても、枕を涙で濡らさない日の無いのが普通かと思います。そうで無い親は、余程、人生に淡白で人間味の無い感じのします。

親の不義で、どうすればいいかと問われて、簡単に見切りを着けて心に整理を着けてさっぱりしろとは、いきなり言えません。子や、若くして親を喪った人に葬式の場で威勢良く言う人のありますけどね。不義で親を喪うのも、死で喪うのも同じ「ような」「感じ」と思います。それを、さっぱりしろと簡単に言えますかいなぁ。

まい、それしか方法の無いのも事実ですけれど、遠慮の無いのは品の無い感じのします。それを、アゴに拳固付けたファイティングポーズな写真付きの恥事子的言い方ではなぁ。何か嫌〜。人の心をおもんばかる おくゆかしさに乏しい不人情を感じます。

岡田斗司夫は、織姫さんと彦星さんの気持ちを分かっているのかな?

倉橋耕平と言う人も分からんです。耕平 クン は、公平に見聞きして書いているのかな。

(新聞ご意見の意訳)「ネットの普及が右傾化を招いたと言われますが、ネット技術が現状を作り上げたのでは無く(憎悪、差別の)言説を多くの人に見せて拡散させたに過ぎない〜」と冒頭に有ります。

だから、右ヨタろーのヘイトが増えたと言っているように読めます。これは、ネットの役目を否定しながら、ネットの果たした役割を肯定しています。初めから支離滅裂です。

気楽なコメントでは無いはずですから、首尾一貫して欲しいです。

耕平 クン は「真実が主観で争われる」と言いながら、ゴー宣に対する認識は、よく調べないで己の否定する主観で書いているとしか思えません。ゴー宣ブログだけでも読んでいるなら、こうした認識は示せないはずです。

また、よしりん先生をメディア知識人とし、専門家でない内の一人としています。しかし、その専門家連中が、己の視野狭窄に固執して誤りを改めないまま、非常識を触れ回っているのを理解していないようです。これも、ゴー宣ブログだけでも読んでいれば理解出来る事です。真実を見る教養人と似非専門家の判別は可能です。

耕平 クン は、好い加減な似非と同化して、似非を見分けられないようです。

この人を指して「非常勤講師なんてアルバイトみたいなもんだ〜」と書かれたのを読んで、他の非常勤講師やアルバイトの人から、職業差別だ、傷付いたと言って来た人はいますか。



この前、毒に嫌悪か〜んと、毒と嫌悪感を同列視しましたが、物事は場合によって区別されて然るべきです。

「公論」において示した「違和感」「疑念」を「差別」としては、議論は停止してしまいます。

先生のおっしゃる通り「公論の対象の差別」と「人を貶める対象の差別」の区分はつけるべきです。

「差別」は一面大事です。比べられなければ、人は認識による判別は不可能です。

それに議論は、道理無く差別をぶつけるのとは違います。差別無き「差別についての公論」は可能です。

これを間違えると、両翼の片方が失われて、左か右のヨタろーに堕します。左右ヨタろーには、左か右の片翼だけしか無くて、保守は両翼を持って、弥次郎兵衛を保っているゴー宣の 1コマは解りやすいです。

片翼では、飛び立てないまま、永遠に左右どちらかの片側を回り続けるだけです。完全無欠な側など有り得ません。欠点を抱えて矛盾は巨大化して破滅を迎えます。これを防ぐには、両翼を配慮した公論議論が必要です。



この所、書けないので、まとめて長くなっているのですけれど

大東亜論の未完は、最終的かつ不可逆的な決定なのですか?何処か、この好機を活かそうと、手ぐすね引く出版社は現れないのですか。ただでは倒れん よしりん先生です。作者自身の未完成宣言でも、まだ信じませんよ。この件では、信じたいものを信じます。

日時
2018-10-26 22:41
投稿者
丑三 やギ
記事
「『悩みのるつぼ』で更なる“悩みのるつぼ”に」小林よしのりライジング Vol.290
No.
105