小林道場は弱者の気持ちをよくわかって代弁されていると思います。
よしりんブログに
「門下生のことをブログに書いたら、弱者は傷つくから、狂っていく」との抗議の来たとあります。
門下生で有っても、無くても、世の一人として動いて、しかも、コメントやメールで、よしりん先生に目の付く所で意見表明しながら『名指しもされずに批判されたから』と言って、傷付くとは如何なものでしょうか。先生は、非難悪口で無くて、論理で批判されています。
意見表明の場を与えられて、己は自由に批判反論しながら、己を批判批評するなと言うのは、悪代官と悪徳商人の談合みたいで卑劣ですね。
かく言う己は、名指しされずに明らかに己を「馬鹿がっ!」って書かれました。一般用語で、個人特定の馬鹿は侮蔑語になります。しかし、別に名指しされたのでは無いです。常識の範囲を先生は保っておられます。
こういうのは、ひねくれると「いじめ定義」に抵触するのですけれど、これで、いじめられた、嫌がらせ(ハラスメント)された、被害を受けたと言ったら非常識です。何とかハラスメントの流行る原因です。この非常識が「怨みハラスメント」の元凶だと思います。
この道理をわきまえずに、あれがいけない、これが有るのがいけないは、責任転嫁も好い加減にした方のよろしいと思います。
批判、反論、批評するなら、己をかけて勝負して来いでしょう。そうで無いのは、権威に笠を借りて物言うのと同じに卑怯です。
よしりん先生は、名と顔看板を世に晒して言論活動しています。そして、その名と顔看板を含めて批評されています。侮辱も含みます。しかし、反論しますけど、傷付いたとは言いません。全ての責任を取る覚悟の有るからです。言われの無い罵倒を受ける覚悟も含みます。
ですから、先生の言論に応じて意見表明するなら、せめて、批判は受け入れるべきが礼儀であり、意見表明する者の覚悟です。意見表明を読む人にも同じ事が言えます。しかも、名指し無しなら、文句は言えないはずです。文句を言うなら、公論は不可能です。
これの嫌で傷付くなら、一切の公論から身を引き、人の決めた結果に口を閉じて黙って奴隷のように従って行かれた方のよろしいんじゃないでしょうか。楽になりますよ。
しかし、家畜のように生殺与奪は、相手の自由にされます。公論の出来無いなら、これに文句を付けるべきではありません。
引き金を引く者は、引き金を引かれる覚悟の有る者だけと言う格言か何だか西洋に有るようです。公論の道理です。合わせて憲法9条を議論する根拠です。