時間がないので徒然に書きます。
御容赦ください。
価値相対的な事を書きます。
被害者絶対正義狂を「いじめ定義」のおかげと言ってしまってるのに違和感が有ります。被害者絶対正義狂は、単なる極左の言、これを振り回すのは、気ちのいの考え方と言った方が、すっきりすると思います。
それに私感ながら、こう言う者たちが「いじめ定義」に感化され過ぎたから、こうなったとは実感しにくいです。「いじめ定義」が、「いじめ定義」が、「いじめ定義」が、いけないんだと考える事に不自然感を持ってしまいます。
自分の領分では、半世紀以上も前から「いじめ定義」は無かったと思います。左翼史観から教育をする人はいましたけどね。だから、被害者絶対正義狂の根本原因を「いじめ定義」のせいばかりにするのは間違っていると思います。単なる左翼史観の方面からだと思います。しかし、地方によって様々だから断言は出来ません。
「いじめ定義」が新ためて認識されるようになったのは数年前に施行された「いじめ防止対策推進法」からだと思います。今の正式な「いじめ定義」は、この法に定められたものです。これは、明確な証拠が有っても隠蔽封殺される いじめ被害者を救済する為の基本的最小原則です。『その上で』教育行政が為すべき事を定めています。『ここが、あくまで本当の肝です。』しかし、これは機能していないのが現状です。
それもそのはず、罰則が無い上に「いじめ定義」が広過ぎて、被害者絶対正義狂とあしらわれてしまっています。(事実、被害者絶対正義狂の危険は「いじめ定義」に存在します。)
何が、いじめか、いじめの範囲(加害、被害)は何かとは、証拠が埋もれている例が、ほとんどなのですから調査検証しなければ分かりません。
しかし、資料の開示は拒むは、開示しても黒塗りだらけだとか、第三者委員会を組織しても、利害当事者をもぐりこませるなどして、重大事態が生じても調査しようとしません。これは、責任を取りたく無いからです。その為に「いじめ定義」に含まれる被害者絶対正義狂を悪用しているとも言えます。『第三者による調査が必要』なのです。被害者絶対正義の二元論にしない為にも重要です。
しかし、調査しなければならないのに、調査しないのです。従って「いじめ定義」は破られ続けられています。よって、いじめ加害者も、いじめ被害者も実際には簡単に色分けはされません。
むしろ「いじめ防止対策推進法」が出来ても、いじめが少なくなったと言うより、多くなったと言うのが現状ではないでしょうか。大津事件の父親も同じ所感を発言しています。被害意識も加害意識も混沌としまっているのが増えているのです。キレて法廷の場に立って頑張っている人(子)も結構多いのですけれどもね。
意思の強い、弱いを言っても、閉じられた環境では、学習性絶望感(無気力)によって、繰り返される理不尽に抵抗する努力を忘れてしまう心理状態に陥ります。それで、追い詰められて悲劇は起こります。いじめ被害を放置され続けても、同じ精神異常をきたします。いじめは心と体を蝕み命の危機に直面する犯罪行為です。
いじめは、見え見えなのに、訴えても、訴えても、いじめに取り合ってもらえない被害者の苦痛を知っています。ですから、被害者絶対正義狂を「いじめ定義」ばかりのおかげとするような向きは全く戴けません。
「いじめ定義」は、どうしても、いじめ被害者にとって必要なのです。これなくして、何をいじめと主張出来るのか。そして、事の是非と真相を明らかにする為に資料開示と第三者調査を、どうやって行わせるのか。
被害者絶対正義狂を「いじめ定義」と同一視しまってるのに違和感が有るのは、この為です。「いじめ定義」を悪の根元としてしまっています。(もちろん、何処かの片隅で被害者絶対正義狂も同時に作り出していると思うので、この面からは見れば悪の根源です。)
定義は大事です。もう一度「いじめ定義」とは何の為に有るか考えた方がよいと思います。「いじめ定義」は、社会問題となっている「いじめ」を少なくする為です。すでに、時代は動いています。
「いじめ定義」の欠陥は、「いじめ防止対策推進法」の改正を待つしか有りません。もっとも改悪されそうなのが問題になっています。
追伸。
逃げ続けた結果がひきこもりだったりするのは、いじめによる重度な精神障害を発している場合が有るのを忘れないでください。
また、いじめ被害は、当然ながら強者と弱者に振り分けて、簡単に論じられるものでもない事を一応、書いておきます。
同時に、よしりん先生の言に矛盾は無いと思います。