いしひろ19さま
ウサギと申します。こんな時間ですが、読んでますよ(笑)。何か、いしひろ19さまの役に立つような、気の利いたコメントができればいいのですが、ちょっと雑な応答になってしまいます。ご勘弁。
まず、天皇は国民ではないという議論については、高森先生が展開されている議論は、政治学的・法律論的な次元においていかに母系・双系が正当化されるかを考えるもので、いしひろ19さまの関心はむしろ、天皇という存在の社会学的・哲学的・宗教学的な本質のようなものに向っているように思われます。
一般に天皇が「国民の象徴」と言われるとき、その意味は、天皇は国民の一体性(統合性)の象徴である、という意味ではないでしょうか。つまり、天皇はその存在によって国民に共同体としての情緒的一体性をもたらす存在である、という意味での「象徴」だということでしょう。
強力な国民統合をもたらす力を持つものとしての天皇という存在は、近代国家を作ろうとした伊藤博文のような国際的な視野を持っていた人たちにとっては、自分たちの伝統・文化の一部ながら、実に驚異的なものであったと思われます。
次に、いしひろ19さまが天皇が「鏡」であると言われるとき、それは「何かを移す媒体」としての鏡というよりも、何かの模範となるもの、つまりは「~の鑑(かがみ)」という意味で言われているのではないかと思います。ストイックに練習するイチローはプロ野球選手の「鑑(かがみ)」だ、みたいな。
私たち国民の模範(鑑)としての天皇という意味では、イメージ的には天皇(皇室)という存在から、高貴で気高い人間のあり方が流れ出てきて、私たちを薫陶してくださるという感じです。その意味では、天皇には「国民」は内在していないということになるでしょう。国民が、天皇というものから、ありがたいものを一方的に頂いている感じ。
古代世界では、神聖王はしばしば太陽にたとえられますが、太陽と地球(地上世界・人間)の関係が、天皇と国民の関係とパラレルになる。
このように天皇は「鑑」としての性格を持っていますが、ある意味でそれは「鏡」でもあります。しかし、そこでいう「鏡」とは、何か俗的なものをそのまま映す媒体、という意味ではないでしょう。すなわち、ふだん私たちの目には見えなくなってしまっている、隠されたもの、秘められたもの、真実、本物、端的には神、のようなものを顕わにすることのできる、不思議なモノ、ということになるはずです。三種の神器における「鏡」がこれに当たるのではないでしょうか。
いしひろ19さまの文言からは、何と言うのだろうか、もし私たち国民が堕落してしまうなら、天皇もその影響を受けるのではないか、私たちが濁っているなら、天皇も濁ってしまうのではないか、というような不安な気持が感じられます。そんな感じがありますか?
最後に蛇足ですが、私が思うに、日本国憲法は天皇という稀有な存在の本質の、重要ではあるが、ほんの一部分にしか触れていない、表現していないように思われます。
<ぽいんと>
・古代社会では、天皇は何よりも、この世界を御造りになった高天原の神々の末裔であり、その神々のお世話をなさる祭祀王であったこと。
・ほとんどの人が農民であった時代に、暦によって刻まれる、農耕のリズム、季節の移り変わり、などを、日本という国の中心である京都で司っていらっしゃった祭祀王としての天皇。
・明治以降、天皇の役割は大きく変わり、都市化・工業化の進展とともに祭祀王としての役割が相対的に低くなり、反面、国民の統合をもたらす存在として、さらには明治時代になって、戦争が避けられない時代に、国家の戦いを勇ましく導いてくださる存在(神武天皇とか神功皇后とかのイメージ)としての性格を強めていった。
・大東亜戦争の敗戦後には、今のように国民の苦しみや喜びにより沿ってくださる、慈悲深い御方(伝統的なイメージとしては観音様のような?)としての性格が強くなっている感じ。今の天皇が、伝統的な意味での「女性性」を強く帯びているのは、間違いないと思います。
以上、ちょっと、思いついたことだけ、書き散らしました。まだ、私も、天皇についての考えがまとまっていないのです。何か、いしいろさまのご参考になるところがあったら、幸いです。
夜行性のうさぎより