ということで、引き続き、感想です。
〇 ゴーマニズム宣言・第444回「森鴎外と脚気」
私は「舞姫」が大嫌いだ、あれこそ優柔不断の典型例だ、と記しましたが、実は鴎外作品は好きで、先にも記しましたように「杯」や「最後の一句」などは権威主義否定の素晴らしい成果だと思います。しかし、その鴎外が、自分の学問には自信と矜恃(きょうじ)を持ち、疑いもしないことが不思議でなりません。自分が間違っていたら、後悔したっていい、誤っていたら、そのことを素直に謝罪すればいい、それで周囲が許す、許さないとしても、自己としての責任は果たせるわけだから、と思うのです。
とは言え、当時の情況においては、脚気は結核や癌や壊血病同様、未知の病気で、いかんともしがたく、自分の信じる道を突き進むしかなかったのでしょう。それはある意味同情します。しかし、周囲で、海軍で脚気死亡者がいないという事実はあるわけで、日本の陸軍と海軍は仲が悪かったと聞いていますが、これを頑固と言わずして何というのか、それが今のコロナ騒動でも繰り返されているのを見ていると、人は何も学習していないな、ますます大人は子供に道を示すことはできないな、という気にもなります。
もっとも、私も自分が納得しない事柄はどれだけ正しいものだったとしても、受け入れにくかった経験が何度もあり、やはり人間のプライドは判断を誤らせる、何とか「明鏡止水」の気持ちになって、自分らしくありたいという誇りを守るためにこそよけいな先入観は捨て去り、ブラック・ジャックの(何度も言いますが)「腫瘍狩り」の医師のようになれれば、と思います。
以上が感想ですが、ビタミンと言えば、鈴木梅太郎さんが発見した際には「オリザニン」という命名で、もしそれが世界レベルにひろまっていれば「オリザニンA」とか「オリザニンB1」」「オリザニンC」というふうに呼ばれていたのかな、と思い、何だか不条理なものを感じ、同時に日本人は(コロナの場合同様)メートル法や太陽暦など何でも西洋人の基準に合わせたがるのかな、国内だけでもそう呼べばいいじゃない、と思ったりします。
もっとも、今から「尺貫法」や「太陰太陽暦」を復活せよ、とは言いませんが、時と場合によって、少しだけでも併用することも可能ではないか、とは思います。昔、「笑点」に出ていた大工さんが「自分の目の中には曲尺の目盛りが目に焼きついている。いまさらメートル法に変えることはできない」とおっしゃれていたのを覚えています。こういうのをアナクロと呼ぶのでしょうし、現代人にとってはメートル法の方が焼きついているわけですが、一度、こういう発想の転換はあっても良いのでは、というのが私の意見です。アメリカ・イギリスではメートル法ではなく、ヤード・オンス法を用いているのですから。「元号」と「西暦」の関係とも似ているような気がするのです。
長くなったので、もくれんさんの方はまた改めてです。毎度のことながらすみません。