グローバルダイニング、残念だったとしか言いようがないですが、確かに、都や国側の証人がなしで審議を進めてゆくことになるから、どっちが不利か有利か、分からないですね。判決が楽しみです。法の正義が実行されますように。
かなり遅くなりましたが、ライジングの感想です。
〇 ゴーマニズム宣言・第445回「商売を利するから反論しない?」
これも何度も記しているのですが、
※ 社会的影響力があるのは「テレビ」であって、「玉川徹」ではない!
※ 玉川なんかテレビ朝日を退社して一個人になったら、それこそ何の影響力もない。
という下りで、本当に、菊池寬の「形」という短篇を思い出します。すなわち、「テレビ」・「テレビ朝日」が「猩々緋と唐冠」で、玉川徹氏が「中村新兵衛」に当たるわけです。
詳しい話は、ライジング398の58コメントを読んで下さい…で済ませようかと思いましたが、時間の取れない忙しい人もいるでしょうし、(自分としては)珍しくまともなことを記しているので、再録します。
>ずっと前に、菊池寬の「形」という短篇のことを記したように覚えています。あらすじをざっと記すと
戦国時代に摂津国にいたとある大名の侍大将の中村新兵衛という武士は、槍の名手で、火のような猩々緋(しょうじょうひ)の鎧を身につけ、唐冠纓金(とうかんえいきん)の兜の姿で知られていた。あるとき、主君の息子の頼みを聞いて、彼はその鎧と兜を主君の息子の初陣に貸してしまった。主君の息子は新兵衛の鎧と兜を身につけ、手柄を立てた。
続けて、新兵衛が敵陣に槍を入れたが、いつもと勝手が違う。今度は敵は命がけで立ち向かって来る。つまり、猩々緋と唐冠の侍にやられた怨みを返そうとしていたのだ(中身が入れ替わっていることなど、露も知らずに)。新兵衛は平生以上の働きをしたが、結局、討ち取られてしまった。
というような話なんですけれども(これを記すために、昔の書き込みを見直してもみたのですが、ひどい有様ですね、何だか無理矢理自分の主張を押し通そうとして、向きになっている。読み返すのが一苦労でした。自分にも特別な鎧と兜があると錯覚していたのでしょう)、要は、テレビ朝日が「猩々緋と唐冠」で、玉川徹氏が「中村新兵衛」だと私は思うのです。それだけのことなんですが、羽鳥慎一氏はまだフリーを経験しているので、この話の意味が分かると思うのですが、生粋のテレ朝社員である玉川徹氏にはこのたとえは分かるのでしょうか?
つまり一個人の言動は実力があったとしても、社会的にはとても非力なもので、たとえ私が何かを主張しようとも、(社内)文集に現在の風潮はテレビによって形成されたものだと記したとしても、まるで聞き入れて貰えなかったりするのです。それを朝日新聞の上司が「小林よしのりは個人で戦っている」とまで評価されたのは、その中村新兵衛以上のことをしている、という話になるわけです。
…以上です。上記に記したように、このことは自分のこととしても考えてみないといけないと思います。これだけではいけないと、ほかにも何か記そうと試みたのですが、やはりこれだけに尽きてしまうような気がします。
それと、商売であって何が悪い、という意見については、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(だったと思う)に描かれている「予定説」の話で良いのだと思います。つまり、キリスト教では主による救済が予定されているのだから、現在している職業の業務をしっかり行えばいいという思想があって、その結果、資本主義がヨーロッパでは発達し、産業が栄えた、ということなのだから、仕事をして金儲けをして何が悪い、ただし、それは主とか天とか至上なる存在の求めるものでなければならない、この場合は「公」なのだから、それにそったものであって、そこには横軸だけではなく、縦軸としての歴史が必要だ、というようなことになるのだと思います。
以上、何だかうろ覚えというか、多分こういうことではないのか、という解釈を述べてみました。もっといろいろ記す予定でしたが、これだかりは「予定」通りにはすみませんでした。