今年最後の生放送、お疲れ様でした。出来事も流行語もむべなるかな、といったところで、自分も投票したものが多かったです。
赤いボタンと青いボタンの話、笑えましたが、そこまで次元を分断しないと私たちは生きてゆけないのか、と暗澹たる気分になりました。
石破さんの苦悩も分かるのだけれども、「千万人と雖も吾往かむ」というふうにはできぬものでしょうか。ある意味、国民民主をやめて、政治家の道を捨ててしまった山尾さん(菅野さん)が賢明で立派に見えます(コロナ脳は治ったのかは分かりませんが)。
人間は理屈や理論だけでは生きられないのでしょうか?先日の「道場」高森先生の言葉とは裏腹に。それでも論理が勝つ、と信じたいです。
コロナ騒動も、皇室問題もワクチンのように人為的に解決しようとする人間の浅はかさが悲しく、卑小に感じられます。自然の力を信じるわけにはゆかぬのでしょうか。皇室の場合でも、王朝という見当違いな理屈を持ち出すのではなしに、天皇しか「氏」と「姓(カバネ)」を与えることができなかったという歴史的事実をもっと重視し、常識的に民間の智慧を持ち出すことは不可能なのでしょうか?
コロナ問題では意見が一致できても、皇室問題では反対論者も存在するわけですが、元を正せば同じことで、表面的なものが似ていても、実はコロナ脳と同じ穴の狢だということがよく分かりました。
かくいう私も人のことは言えないわけで、現在、ナルコレプシーのために薬を飲んでおり、コーヒーとお茶を大量に飲んでもいるのですが、これも自然の摂理に反して、人為的に睡眠をコントロールしようとしている点で似ているような気もします。ただ、こればかりは仕事の問題にもかかわるし、趣味をしていても起こる現象なので、なる時間をはやくすればいい、睡眠時間を多く取ればいい、という問題でもないから、難しいです。
また、別の話になりますが、先日姉と以下の話で口論になりました。自分もミシンで物を縫えるようになりたいという話をしたら
「貴方はミシンで何を縫おうというの。おとうさんがしていたから、貴方もできなければいけないという理屈はない。ましてや、おかあさんがミシンを使っていたのはある意味職人技だった。人には能力がある。努力で何とかできると貴方は考えているようだけれども、それは違う。貴方がミシンをやったら、自分の指を縫うのが関の山だ。両親のように何でもできるようにならなくていい。貴方は貴方に見合った生活をしなさい」
というふうに返されました。要は使わないものは処分しろ、という話なのですが、これもある意味、自然の摂理に反した生活をするべきではない、という論理と繋がる話のように思えます。
しかし、自分は練習位はしたい、できればミシンを使いこなして、自活できるようになりたい、自己を向上させたいとも思うので、少し悩んでいます。何だか関係ないなかり続きましたが、人間の努力と自然の摂理とでどちらを優先すべきか、と考えた場合、それらを両立させるものは歴史的な経緯や経験と今の時代に沿った橫軸における「常識」とが絡み合ったところにあり、ある種の賢明な、論理的な智慧が必要とされるのかな、というふうに思いました。
以上です。やっと時間が空いたので、そろそろ感想を記します。