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<「やまとごころ」において>

 うさぎです。本日、3月17日の愛子さまの記者会見の様子を拝見しました。そこで愛子さまは、次のようにおっしゃっていました。

「私は幼い頃から、天皇皇后両陛下や、上皇上皇后両陛下をはじめ、皇室のみなさまが国民に寄り添われる姿や、真摯に御公務に取り組まれる姿を、拝見しながら育ちました。そのような中で、上皇陛下が折にふれおっしゃっていて、天皇陛下にも受け継がれている、『皇室は国民の幸福を常に願い、国民と苦楽をともにしながら、勤めを果たす』ということが、基本であり、最も大切にすべき精神であると、私は認識しております。」

 この言葉を聞いて、私は愛子さまは、天皇となられるにふさわしい方であるという思いを強くしました。

 さて、女性天皇・女系天皇というテーマについて、先に小林先生がブログで、「人格よりも血統、しかも男系血統を尊敬するという者の感覚が全然分からない。本当に自分に尊皇心があるのか? それは何故なのかを問うてみる必要があるだろう」と問題提起されていました。このことについて、私なりに少し考えてみたことを、以下に記させていただきます。

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 国民の中には皇室の存在意義について否定的な見解を持つ人たちが一定数います。そういう人たちから見れば、天皇は男系男子でなければならないという人たちも、女系天皇も容認すべきだという人たちも、いずれも「血統」という前近代的原理を現代社会に存続させようとする点では、同類に見えることでしょう。
 女系天皇容認派からすれば、男系固執派は「シナ的な価値観」に縛られた残念な人々に見えるわけですが、その女系容認派も、宗教的なものを伝統主義として否定する近代主義の立場からすれば、非合理的な価値観に縛られた残念な人々ということになるでしょう。
 この状況において、男系固執派は女系容認派に対して、「近代主義者からすれば、俺たちもあんたたちも伝統(具体的には血統)という非合理的要素をはらんだものを奉じているという点で同類なのだから、そんなに俺たちのことを『間違っている』なんて高所から言ってくれるなよ」みたいな、なんと言えばいいのだろうか、変な共犯者的な甘えの感情を持ってしまうのではないでしょうか。

 ちなみに、女系容認派の立場からなされる、男系固執の態度は中国の男尊女卑の考えを輸入したものであって、日本本来のものではない、という批判は、ちょっと考えると無理があるように思われます。
 「輸入」されたものは、どんな文化的・宗教的思想観念であっても、日本人にとって本質的なものとはなりえない、というのは、正しいことでしょうか。ならば、日本人にとって仏教的なものは「からごころ」なのでしょうか? 仏教がインドから中国を経由して日本に伝わって、日本の風土と溶け合うかたちで土着化したように、男尊女卑という価値観も、長い時間をかけて日本文化の中に溶け込んでいったという側面があるのではないでしょうか。そのようにして、ある時期には、たしかに日本の文化の一部として溶け込んでしまっていたものを、「それはもともと中国からやってきたものだから日本的なものではない」として退けるやり方には、少し違和感を感じてしまいます。
 仮に中国的な男尊女卑の思想が、ある時期から日本の伝統で大きな力を持つようになったとすれば、その意味においては、その数百年にわたる長い時間、日本人は「日本人としての本来的な在り方」を喪失していた、ということになるのでしょうか。

 そもそも、本居宣長のいう「からごころ」とは、必ずしも中国由来のものを拒絶する排外思想の言葉ではなく、むしろ文化・芸術・宗教一般に於ける、ある種の形式主義とか合理主義を批判するための言葉であったはずです。宣長はこう言っています。

「『漢意』(からごころ)というのは、中国の文化を好み、有り難がることだけを言うのではない。何でもその善悪や是非を論じ、物の理屈を考えようとする、儒学書のような物の考え方全部を指して云うのだ。」
                                 「からごゝろ」『玉勝間』巻1より

 宣長にすれば、和歌でも『古事記』でも何でも、その対象と、素直に魂や心を震わせて一体化すること(=「やまとごころ」的な在り方)が大切なのに、対象に対して善悪是非の様々な理屈をつけて、それが対象の本質であるかのようにしてしまう態度、一言で言えば「分別知」を媒介として対象と関わる態度、それが「からごころ」の正体のはずです。その意味では、世界中の古今東西のどの民族集団であっても、人間である限り、自らの心の性向として「からごころ」的なものと「やまとごころ」的なものを持っている、ということになります。

 話を戻します。私が、愛子さまが次の天皇になられることを望むのは、いわば、わたし自身の「やまとごころ」において、愛子さまはその風格・品性・知性のすべてにおいて、天皇にふさわしい御方であると、感じるからです。愛子さまが天皇として即位される姿を想像するとき、なんと言えばいいのか、伊勢神宮の森の空気のように、静謐で清らかなものを感じるからです。
 このことが意味しているのは、私は必ずしも、シナ的男尊女卑の思想に反対するがゆえに、愛子さまが次の天皇になるべきだと考えているわけではないということです。「愛子さまが天皇になることに反対する輩は、シナ的男尊女卑(からごころ)に毒されているのであって、本来の日本の伝統に立ち返りさえすれば、自然と女系天皇の支持という立場になるはずなのだ」、というような議論の仕方は、どうも私にはしっくりきません。

 男尊女卑、もう少し言葉を柔らかくするなら、特定の社会的領域における男性優先の思想は、ある場所、ある時代においては、たしかに「やまとごころ」に基づいていると言えるような状況もあったはずです。それを現在の私たちの価値観である男女同権・男女平等の視点から「過去の過ち」と断じることは、それ自体が、ひとつの「からごころ」に陥ってしまっているような気がします。

 最後になりますが、会見の中で愛子さまは、皇居の緑豊かな敷地内を散策して、どのような生態系が広がっているかを知ることに興味がある、とおっしゃっていました。私は、愛子さまの曾祖父であられる昭和天皇が南紀白浜の神島をご訪問なさった折に、当地の植物について御進講を行った植物学者の南方熊楠が作った歌を思い出しました。

  一枝もこころして吹け沖つ風
  わか天皇のめてましゝ森そ
  (一枝も心して吹け、沖の風よ。我が天皇がお愛でになった森であるぞ。)

 以上、うさぎでした。

日時
2022-03-17 20:54
投稿者
Dr.U
記事
「陰謀論に嵌る馬鹿」小林よしのりチャンネル Vol.430
No.
102