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 うさぎです。映画『ハンナ・アーレント』(2013年)を見ました。渋い映画でしたが、いろいろ考えさせられました。

 人は、システムを動かす歯車の一つとなり、やがてその中に埋没し、思考停止し、惰性的に生きるようになってしまいます。
 惰性的に生きて行く中で、自分にとって何が正しく、何が過ちであるか、何が美しく、何が醜いか、そういうことを考えることをしなくなります。そのようなとき、人は人であることをやめています。
 「何かがおかしい」と思ったなら、自ら歯車であることをやめ、必要ならシステムを壊し、新しいものを作るのが、人が人らしくあるということでしょう。
 そうであるとして、どうすれば人は、「何かがおかしい」ということに気付けるのでしょう。どうすれば、善と悪、美と醜の感覚を、研ぎ澄ました状態にしておくことができるのでしょう。

 こういう問いに対して、アーレントなら、ギリシャ的な「観照」の必要性について語り始めるのかもしれません。西洋人がギリシャや聖書の伝統に根源的なものを求めるならば、さて、日本人は、どこにそれを求めればいいのでしょうか。
 唐突ですが、こういうときに、なぜか私は、昭和天皇が詠まれた、次の和歌を思い出します。

   「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

 森、神社、天皇と民、日本の風土、そういったものが、この歌にぎゅっと凝縮されているような気がするのは、私だけでしょうか。


 かつて海軍兵学校では「至誠に悖(もと)る勿かりしか」と常に自問していたそうです。…亡くなったあの方は、そのような問いを自分に投げかける習慣は持っていたのだろうか。大きなシステムの中で、重要ではあるが、システム自体の善悪美醜については思考停止してしまった、巨大な一個の部品・歯車になってしまっていなかったか。彼もまた、「悪の凡庸さ banality of evil」を体現する人物の一人だったのでしょうか。

 価値相対主義は乗り越えなければならない。そうであるとして、肝心の、自分自身の善悪美醜を察知するセンサーは、どのようにして鍛えればいいのだろう。

 そんなことを、この映画を見て思いました。

日時
2022-07-12 03:48
投稿者
Dr.U
記事
「ロシアと戦前の日本が同じだと?」小林よしのりライジング Vol.440
No.
250